オホーツク関連(1669年〜1888年)


西 暦 年 号 オホーツク関連
1669 寛文9 津軽藩隠密が蝦夷地を探索した『津軽統一史』に(ユウヘツ村300人ほど 大将シオサヌ)と初めて「ユウへツ」の地名が収録される
1786 天明6 蝦夷拾遺に「ユウベツ川」が見える
1798 寛政10 谷口青山の沿岸生図『沿岸二十三図』で「ユウベツ」写生図を描く。これにより場所内の部落戸数初めて明らかとなる。
1800 12 間宮林蔵がオホーツク沿岸の測量を行う。
1801 亨和元 磯谷別吉「ユウベツ」に泊まる。
1817 文化14 藤野家湧別浜で漁業経営
1846 弘化3 ユウベツの状況が松浦武四郎によって記述される。
1869 明治2 北海道開拓使設置。蝦夷を改め北海道とし、11国86群を設置。松浦武四郎の意見を入れ全道の命名が決まる。
    北見国紋別郡と命名。紋別郡は和歌山藩の支配地に定められる。
    北見国と称し八群を設ける(網走郡、斜里郡、常呂郡、紋別郡、宗谷郡、枝幸郡、利尻郡、礼文郡)紋別郡は和歌山藩の管轄となる。
1870 3 和歌山藩、紋別郡の支配返上し開拓使の直轄になる。
1871 4 札幌開拓使庁開設
    網走漁場持ちの藤野家、紋別などの漁場持ちとなる。
    松本「北見州経験誌」に丸瀬布川をウレセフベツとして記述
1872 5 紋別郡は根室出張開拓使庁(松本判官)の所管となる。
    根室出張開拓使庁は根室支庁管轄となる。紋別郡は10ヵ村としユウベツ村と名付けられる。
    紋別戸長管轄下になり戸籍調査着手。紋別、常呂両群戸長は盛田辰蔵
1873 6 根室支庁網走出張所(オホーツク総合振興局の前身)を設置し、紋別に分局設置
1875 8 村名漢字の「湧別村」となる。
    根室支庁網走出張所を根室支庁網走分署に改称。紋別郡副総代に竜田治三郎任命
1876 9 紋別郵便取扱所開設。
    北海道大小区制を定め、北見国四群は27大区、紋別郡は4小区に定められる。
    根室支庁、アイヌに姓氏を称させる。和名を奨励
    藤野家が北見農場を放棄し、漁場は解放される。
1877 10 駅逓に補助費交付(当時斜里、網走、紋別の3ヵ所で年額80円)
1879 12 北海道大小区画制を廃し、郡区町村を編成。
    川畑又三郎が北見四群の副戸長となり戸長役場(私宅)を設ける。
1880 13 網走郡役所開庁(開拓使網走、斜里、常呂、紋別郡役所または網走外三群役所または単に網走郡役所という)
    紋別戸長役場開庁、戸長 半沢真吉
    旧土人宮川房治、湧別川で鮭漁業権を得、漁業を始める。
1881 14 高知県人徳広正輝、時の網走郡長大木良房と東京にて面接し、北海道開拓状況を聞き郡役所海産税史となり東西に奔走していたが、農牧を志し職を退き湧別に来住。アイヌの茅家を根拠地として1個の銃を肩にして狩猟を始め悠々自適に生活。翌春、大阪の人和田氏と共同して付近を開墾、馬鈴薯を作付した。湧別地方開拓の第一歩であり逐年湧別(上湧別)に和人の移住を見た。
    網走郡役所雇半沢真吉が旧土人に農耕指導のため湧別村に移住し農耕に従う。
1882 15 紋別郡は根室県の管轄となる。
    半沢真吉、徳広正輝が湧別に定住し農耕を始める(湧別の開基)。
    ※丸瀬布町史によると半沢真吉、長沢久助、徳広正輝,苗田茂作湧別に移住、農耕を始めるとある。
    半沢真吉が紋別戸長に任命され退村
    原鉄次郎、和人としてマウレセブに最初の足跡を残す。
1883 16 紋別に紋別郡管下巡査派出所設置。
    和田麟吉が湧別に定住。湧別駅逓設置され和田麟吉が取扱人となる。
1885 18 網走外三郡役所庁舎落成。
    徳広正輝が北海道農産展で褒状授与される。
1886 19 郡役所は道庁直轄となり紋別郡は根室支庁に属す。
    上川の川村シトンバカアイヌ丸瀬布地方に入る。
1887 20 徳広正輝が湧別の海岸に初めて牛7頭(北海道庁貸付牛)放牧し、ナヲザネ(上湧別町中湧別)に定住、牛豚を飼育し林檎試作
    紋別郡9ヵ村戸長役場庁舎落成。湧別村戸数21戸、人口76人
    網走警察署紋別分署設置(坂本戸長分署長兼任)
1888 21 道庁林務課派出所が網走に設置 ※道庁赤レンガ庁舎落成(市町村制公布)
    釧路〜網走間の道路開削
    遠軽土功組合が遠軽土地改良区に組織変更
    留辺蘂〜遠軽間に定期バス運行
    遠軽婦人団体協議会創立
    釧路家庭裁判所遠軽出張所設置
    網走支庁遠軽社会福祉事務出張所設置
    遠軽地区交通安全協会設立

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