びょうぶ岩
生田原開拓のもう一つの歴史-消えた京都集落-
昭和20年、政府は大都市の食糧欠乏と社会不安の対策として、東京・京都などの大都市から人々を北海道へ移住させ、農業を行わせる、集団帰農政策を始めました。
政府側は移住前に住民に北海道へ行けば芋やかぼちゃがころがっていて、食べ物には困りませんと説明。
しかし、実際の状況は、過酷なものであり、京都から生田原へ来た26戸が入植したのは、屏風岩を更に奥へと通りぬけた、生い茂る木々の土地。それに加え、生田原はイクタラというアイヌ語“笹の多いところ”という意味の語源からくるように笹の根を一鍬ずつ、おこし払って広げるという大変な開墾作業となりました。
国策だった集団帰農とは、後に棄民(すてる)政策であると悪評を買い、その過酷な環境に、ほとんどの人が離農し、生田原の京都集落も跡形もなく消えてしまいました。