オホーツクハッカ盛衰記
大正2年のハッカ騒動
明治44年から続いたハッカ騒乱の反動は、大正2年に露呈しました。
この年は大凶作で、ハッカも3分作の減収で品不足となり農家は売り惜しみをしました。しかし、大手5商社は、2年連続の協定崩れによる損失を取り戻すため、前渡し金による集荷を行い横浜へハッカを送った後に安値を発表するなど、農家の売り惜しみの裏をかく策略に出ました。これに怒った農民たちは暴挙に出て、野付牛では鈴木商店の事務所が破壊されたりするなどしましたが、結局は商社側からわずかの包み金で終わりました。
次いで翌大正3年は、3組で10円という前例のない安値で買い叩かれる有様で、サミュエル事件の反響は厳しい状態でした。その後もハッカ相場が大手商社に独占される状況は変わりませんでしたが、共販体制の崩壊は、価格高騰で多くの利益があった農民にも、団結の必要性を痛感させました。北見各地では、「農民の組織化を図って耕作者の利益を守ろう」と組合運動が行われて、大正2年3月には、網走・常呂・斜里3郡に組合が設立。紋別郡でも下湧別・渚滑・興部・雄武などで調印が完了しました。
しかし遠軽町では、サミュエル商会との精算の見通しがつかない者や、単独で商人に高く売った者がいたため、農民たちは調印を渋り、有志の努力も空しく、組合の結成は断念されました。そんななかでも、近隣住民との連携が十分ではなかった農村の中に、連帯意識と自主的な組織活動の必要性が高まり、小規模ながら産業組合が組織され、大正3年8月には生田原地域と湧別信用販売組合が、12月には学田購買販売組合が設立されました。