オホーツクハッカ盛衰記


オホーツク一円にハッカを広げた学田農場

明治31年に発生した大冷害と翌年の大水害は、その前年に遠軽に集団入植したばかりの学田農場に多大な被害を与えて、離農者を続出させました。しかし、山形県からの移民の中には、郷里でハッカ栽培の経験を持ち、関心の深い者が多かったため、それを復興作物にしようと試み、明治33年以降より、ハッカび栽培をおこないました。それによって、農民の収入が急増し、学田農場は経済的な立ち直りを見せることがでたのです。

佐竹宗五郎

佐竹宗五郎

学田農場で最初にハッカを栽培したのは佐竹宗五郎と小山田利七・秀蔵でした。中でも小山田は、郷里で失敗したハッカ栽培の夢を新天地で実現するという希望を抱いて入植していました。3人はこの地方でのハッカ栽培の先駆者である高橋長四郎から種根を買って、明治32年4月に栽培を開始、故郷の山形から蒸留器を取り寄せて収穫したハッカ草を製油し、それを山形の小野金太郎に送って販売委託したところ、97円50銭の収益を上げました。この金額は、他の農作物に比べ3倍近くの収入にあたりました。

同じ学田農場の農民たちは、小山田たちの行動を冷ややかな目で見ていましたが、3人の熱意とハッカの収益の高さは、農場経営の思案に暮れていた現場監督の信太寿之を動かしました。

「ハッカが学田農場を救ってくれるかもしれない」

と、信太はさっそく農務省などの関係機関に対しハッカの価格や需要状況の調査を行いました。すると、湧別地方の気候や土質がハッカ栽培に適していることが確認できたほか、日本で使用するハッカの大部分は輸入に頼っているため、国産なら将来性が期待できることもわかってきました。

「水害に遭った学田農場の復興作物にしよう」

と考えた信太は、明治33年春、湧別中の種根を買い集め、1戸あたり3反歩を目標にして、農民たちに栽培を奨励しました。ハッカは相場の変動が激しい作物であるため、郷里で失敗した農民もおり、小山田たちのハッカ栽培を好ましく思ってはいない者が多くいましたが、信太が半ば強制的に新たに打ち立てた農場経営の方針により、農民たちはその意思に関係なく、一斉にハッカ栽培を始めることとなりました。

小山田利七

小山田利七

こうして明治33年には学田農場内一面に、30町部のハッカ畑が広がり、収入は1反あたり39円となりました。他の農作には見られぬ換金率の高さは、農場に大きな利益をもたらす結果となって、さらにこの噂を聞きつけた他村にまで、ハッカ栽培に対する関心は広がっていきました。

翌年以降は、北見や斜里、美幌などからも学田農場に種根を買い付けに来る農民が後を絶たず、こうしたことから明治末期には、学田地の基線沿いに市街地が形成されるなど、町は急速に発展していきました。

 


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