オホーツクハッカ盛衰記


サミュエル事件

これらの悪徳商法が明るみに出ると、ついに生産者側から打開策を講じる動きが現れました。

上湧別村長の兼重浦次郎は、これまでの5商社以外と直接取引をしようと考え、横浜地方の相場を調べることにしました。すると、協定価格が予想外に安かったことから、代議士の木下成太郎を通じて、神奈川県知事に新たな買入業者の紹介を求めました。これにより、ロンドンのサミュエル商会横浜支店が紹介され、

「二度とだまされないためにも、農民一個人での取引はやめて、生産地一括での取引にしなければならない」

と、兼重村長はサミュエル商会との新しい取引に向けて、生産者たちと結束して湧別方面で共同販売を組織し、さらに野付牛の鈴木浩気らにも組織化を勧めました。これを受けて、鈴木や野付牛村長の長谷川源之丞が中心となり、北見地方でも組織を作りました。

また、兼重村長らは、ミュエル商会ともただちに秘密交渉を進め、商会側が主張する「道農会が責任を持つならば引き受ける」との要求に基づき、大正元年11月30日、札幌で北海道庁の斡旋により契約を交わしました。

  1. 生産者は大正2年1月10日まで生産地においてハッカ10万斤を商会に引き渡すこと。
  2. 両者の協約価格は1組9円とし、値上がりの場合は13円まではサミュエル商会の取得、13円以上はその差額利益を両者で折半して受け取ること。
  3. 商会は生産者が委託するハッカ1斤につき、4円50銭の前貸金を出すこと。

などが、主な契約内容でした。

ところが、この秘密協約はたちまち大手5商社の知るところとなり、防衛線を張った5商社の操り価格によって、相場は3日間で9〜15円にまで高騰。市場は大混乱に陥りました。

「早がってんをして安売りしないよう、互いに知らせ合おう」

と、ハッカ農家では刻々変わる相場を早馬で親族知人に知らせ合い、安売り防止に努めました。しかし、ハッカの大暴落に騒然となった人々の頭からは、兼重村長らが苦心してサミュエル商会と結んだ協約販売のことなど完全に消え去ってしまい、個別でハッカを売り渡す者まで現れてしまったのです。

契約は「ハッカ10万斤を引き渡すこと」だったが、個別に売り渡しては10万も集まらない可能性があり、

「サミュエル商会との違約が発生する」と焦った兼重村長や生産者代表らは、農家を回ってサミュエル商会との協定を守るように説得しました。

さらに、道庁、道納会、警察分署長など、指導的立場の者たちも同じく農民の説得にあたった結果、すでに売ってしまった一部の農民以外は、共同販売へ出荷することで、事態はようやく収拾しました。

しかし、この大混乱の影響は、サミュエル商会に1万6000円あまりの多大な損失金をもたらすことになり、サミュエル商会は長引く事後処理の解決のため、大正4年12月、生産者や代理人の兼重村長ら969人を相手取る「貸付金残金及び立替金請求」の訴訟を起こしました。これは、サミュエル商会が大正元年に貸し付けた前貸し金と、受託して販売した収入を精算して生じた赤字などを、超過前貸しとして、その返還を求めたものでした。

これに対し、被告となった農民側は、

「品物を在庫にしたのは商会の不手際で、約束した清算日を大きく遅れて販売の商機をも逃したので、本来適期に品物を売っていれば、前貸し金を遥かに上回る収入が得られたはず。損害を被ったのはむしろ農民側である」と反論しました。

この裁判は大正8年6月に農民側の主張が認められ勝訴とりましたが、その後も細部の事項についての裁判は延々と続き、泥沼を挺しました。そして係争のさなかに起こった関東大震災で、所管の横浜裁判所が火災に遭い、関係書類も焼失したため、うやむやに立ち消えになってしましました。

国際商報輸出天産市況

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