オホーツクハッカ盛衰記


薄荷の消長

薄荷試験温室

薄荷試験温室

大正3(1914)年7月の第一次欧州大戦勃発により、国の方針で食糧生産が優先されたため、ハッカ耕作は、種根を絶やさない程度の小面積で栽培され、長らく低迷の一途を辿りましたが、大正13年頃からは徐々に回復し、昭和初期頃までにハッカ全盛期を迎えました。

その後、第二次世界大戦後の混乱も収まった昭和22(1947)年、ハッカは自由作物となり、また、ハッカの消滅を憂える熱心な人々によって「遠軽町薄荷耕作組合」が設立されました。

これにより、土地づくり、栽培技術、蒸溜技術などを通じて、経営の合理化、農家経済の安定向上が図られ、昭和24年に設置された農業試験場では、ハッカの品種改良事業に取り組み、28年に「万葉」、29年に「涼風」の優良品種が誕生。30年代には高収益作物として定着しました。しかし、その後は外国産の安いハッカや合成ハッカの進出で、国内のハッカ産業は低迷し、酪農振興という時代の流れから耕作者が徐々に減り、昭和59年を最後に耕作者はいなくなってしまいました。

ハッカはシソ科の多年生植物で、現在世界で生産されている薄荷草は、和種(日本薄荷)、洋種(ぺパーミント)、緑種(スペアミント)の3種類に大別されます。和種はメントール(ハッカ膿)の含有率が最も高く、取卸油からハッカ膿やハッカ油に精製され、薬効や芳香を活かして、医薬品、化粧品、菓子、洋酒などに広く使われています。


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