オホーツクハッカ盛衰記
ハッカの仲買人と悪徳商法
明治34年以降の急速なハッカ栽培の普及により、オホーツク一円はハッカの一大生産地となりました。秋の収穫期になると、ハッカの貿易商や商人が買入れに来るようになり、販路が開けたことから生産はさらに激化しました。
そんな中、明治37年はハッカの相場が7円台にまで高騰。しかし、実際の農民たちからの買い取り価格は5〜6円でした。それはハッカの相場が、大手輸出業者の海外市場における先物売買取引によるため、業者の営利を主とする一方的な都合で買い付け価格が定められており、それらの仕組みは農民たちの感知し得ないもので、商社は農民たちの知識の疎さをいいことに、代金の前貸し、肥料の貸付、青田買いなどを行って買い叩いていたのです。
その後、相場は下落し続け、明治37〜38年には4円台を上下し、明治39年は日露戦争や社会情勢の乱れで2〜3円台にまで下がるなど、ハッカ農家の収入は大きく減額していきました。
そんななか、昭和39年に横浜の小林・矢沢・多勢、神戸の鈴木の大手4商社が結託して協定を結び、一方的な価格操作で取引を始めました。これは、4商社がロンドンの相場を見通して、十分に利益の出る協定価格を決め、自由に値上げと値下げを繰り返して利益をむさぼるという方法で、「泥棒商売」と呼ばれる悪徳商法だったのです。
まず商社側が、ハッカの出回りの初期に30〜50銭と値上げし、その後急激に値を下げます。農民たちは最初の値上げの時期には、まだまだ値上がりするものと期待して売り惜しみをしますが、突然の底なしの下落に驚いてしまい、ほとんどのハッカを安値で売り渡してしまします。「損をしたくない」という農民の心理を巧みに利用したこの悪徳商法によって、農民たちは結託した商社の思うつぼにはまってしまいました。しかし、この時はまだ誰も商社の陰の操作に気づいていませんでした。
この悪徳商法に人々が疑問を抱くようになったのは、明治44年、大手の4商社に独占されていたハッカ売買に、横浜の長岡商会が進出したことがきっかけでした。長岡が4商社の協定価格を無視して、20銭高で買い付けたことにより、焦った4商社のうちの1社がさらに高値で買い付けてしまい、協定がすっかり破れてしまったのです。
この件で、ハッカ相場に日頃から疑問を抱いていた関係者ばかりか、相場に関心の薄かった農民までもが不審を抱くこととなりました。
翌年の明治45年になると、今まで敵対関係であった長岡商会が、大手4商社と手を結んで価格協定に加わり、買い付け価格を8円60銭に設定し、1週間後には7円に値下げして買い叩く手段に出ました。これは、売り惜しむハッカ農家が、歳末支払いに窮する弱点を巧みに狙い打ちしたもので、またもや農家は大打撃を受ける結果となりました。