オホーツクハッカ盛衰記


湧別原野でのハッカ栽培の始まり

山形県が主な生産地であったハッカは、明治中期以降、移住者によって北海道での栽培が本格化しました。湧別原野で最初のハッカ栽培者は、渡部精司だと言われています。福島県出身の渡部は薬種商を営んでおり、もともとハッカに関する知識は確かなものがありました。

明治27年、入植のための農地調査中に湧別原野を訪れたところ、偶然野生ハッカを発見しました。

「このような寒さ厳しい土地でも育つのか」

と驚き、入植と同時に、上川郡永山村のハッカ栽培者から種根を買い取り、さっそく試作を始めました。

そして翌年9月、自ら考案した簡易蒸留器で、収穫したハッカを精油して、東京や山形などの業者に買い取り価格を照会したところ、一斤約2円75銭という回答があり、

「これはいける!」と、ハッカ栽培の有望性を確信しました。(一斤=600g)

「ハッカを入植者たちの安定作物にさせたい」

渡部はそう考えて、近辺の住民たちにも栽培を推奨しましたが、ハッカ栽培に経験のない入植者の多くは、山師的な作物と警戒して相手にしませんでした。そんななかでも、湧別村の高橋長四郎は、本州でハッカ栽培の経験を持っていたため、渡部の勧めに関心を示し、のちに「ハッカ高橋」と呼ばれるほど、この地域で手広く耕作を行いました。高橋の成功を見た人々は、一人、また一人とハッカ栽培を手掛けるようになり、こうした個々の熱意によって、徐々に湧別地方にハッカは広がっていきました。

明治末期薄荷取卸油の製造の様子

明治末期薄荷取卸油の製造の様子

渡部自身もブリキ職人を入れてハッカ製造機を制作販売したり、ハッカを農家に無償で譲るなど、ハッカの宣伝普及に努めました。その実績から、渡部はのちに網走三郡の農会副会長の座に就き、農業指導者として名を残しました。


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