えんがるストーリー構築プロジェクトシンポジウム



■佐々木

安彦先生は『虹色のトロツキー』で植芝盛平を登場させていましたし、また武田惣角についても『王道の狗』で登場していますが、先生は物語の中で彼らを描く時にどのようなキャラクター設定をしたのでしょうか?

■安彦

創作の舞台裏っというか、裏話を暴露するのは非常に恥ずかしいんですけども。漫画のヒーローっていうのは、ある程度かっこよくなきゃいけない。そうでないのも描いてますけど。喧嘩をしたら強いとか、何かかっこいい技を使えるとか。

虹色のトロツキーというのは満州にあった建国大学の学生っていうのを主人公に選んだんですけども。その学生に何が必要か、一人で強いというのは何が良いかなーと思って僕は柔道とか空手とか考えたんですけど、柔道はどうも汗臭いと。空手はちょっと暴力的すぎるじゃないかと。そこで、できたら建国大学の師範、顧問なんですけども、当時満州国の武芸の最高顧問であらせられた植芝盛平という方が資料の中に出てきたんです。いかにもそれらしい、武道家らしい風貌でかっこいい。何か合気道って爽やかだな、これでいこうかなっと。

それから植芝さんの資料を見たら、いきなり遠軽って地名が出てきて遠軽の某旅館で弟子入りして。そういう事が稀にあるんです。「えっ!」っという出会いがあるんです。そういう意味では稀にある中でも、非常にまたレアな出会いだったなと。逆に「知らなかったなぁー!」という、そういう恥ずかしい思いもしみじみしました。そんな人もいたんだと。

昨日10人くらいのミニ同窓会をやってくれたんですけど、白滝の村議員をやっていた男がいるんですが、的場って言う男がいるんですが。今この会場にいますね!それで酒の勢いでけしかけたんです。「色々的場やってるけどさ、合気道の精神呼び出せよ」って。「やんないと駄目だよー」みたいな事言ったんですね。

ぜひやって欲しいですね、そう思います。

■佐々木

私も安彦先生の作品を読ませていただきましたが、今言ったような人物が非常に生き生きと描かれているのが印象的でした。

やはり、昔の人を書くにはどうしても推測に頼らざるを得ない所があるんですが、やぱり推測は伝わりやすいように、とても大事な事なんですよね。推測で描く部分もあるからこそ、やっぱりロマンもあって、読む側としてもワクワクする所があると思います。

浅利先生、遠軽の学校では、合気道とのゆかりを生かした取り組みというのはあるのでしょうか?合気道の技を、習得を通じて心身を鍛えるという精神は、子供の教育にも役に立つと思うんですけど。

■浅利

私は合気道とあまり関係がないんですが、今年から中学校には武道が正科として入ったんです。私の隣の遠軽中学校では柔道をやってると話聞いたんですが、白滝中学校は合気道をやっているという話をしておりました。

また、小学生も同好会の中で入っていると話もありましたし、何人かは白滝以外の地域からも通っているという事らしいです。

武道をやるのも剣道や柔道は、体育の先生が段位を取ってらっしゃる方が何人かいて、きちんと授業で教えるんだから段位を取らなきゃ駄目という事で覚えているんですけれども、町の柔道の先生の方に助けていただいて、段位取る研修会にも参加していますが、合気道はそこまでできていないです。

だから、体育に入ってきてますから、まず指導者の育成も必要ではないかと思います。せっかくの聖地ですから、そういう事もしてかないと。

■佐々木

そうですね。やっぱりせっかくの体育の授業なので、地元発祥の武道を教えられたら歴史の教育にもつながって一石二鳥だと思います。

合気道は柔道や剣術、また空手と並んで日本の武道の代表的なものとされているので、植芝盛平に絡めたこの歴史というのも遠軽が内外に胸を張って広める、重要な歴史の一つだと思います。

次に、遠軽の欠かせない特徴と言えばオホーツクの交通の要衝だという事です。皆さんがいつも利用する国道333号線なんですけど、これは明治20年代に作られた「北海道中央道路」というのが基になっています。

このオホーツク全体の発展は、この道路の開削なしにはありえなかったものと言われています。そしてその開削にあたっては皆様のご存知のとおり、厳しい囚人労働がありました。特に白滝から安国区間というのは最も犠牲者を多く出した工事区間でもあったんです。

またこれとは別に、鉄道の敷設についても地域の産業の発展に大きな役割を果たしていますが、これにも先人達の面白いドラマが語り継がれています。

■中村

中央道路は、北海道庁が置かれた札幌から上川、遠軽、留辺蘂、北見を経て網走に至る道路という事で、当時は札幌〜旭川間を上川道路、旭川〜網走間を北見道路と呼びました。その総称として北海道中央道路と呼んでおりました。上川〜網走間約163kmを明治24年に囚人1千人が動員され、わずか8ヶ月余りの突貫工事によって完成しています。北海道の内陸横断道路の完成によって、道東開発に大きな役割を果たしました。完成後は明治25年に駅逓が置かれ、遠軽では6号野上駅逓、7号滝ノ下駅逓、明治26年に8号滝ノ上駅逓が設置されています。

厳しい囚人労働については、200名以上の死者を出しており、別名「囚人道路」という様なあだ名がつく程の惨状だったとされています。囚人には2人1組で足に鉄球が付けられ、脚気のような風土病も蔓延しました。遠軽の野上にも慰霊碑として山の神の碑があり、端野の緋牛内にある鎖塚には、土を盛って死者を埋め、墓にした土まんじゅうの跡があります。

このような状況の背景というのは、ロシアの南下政策へ抵抗するため、国防の面から道路整備が急がれたこと。それから食糧不足のため、本州から送られた食料ばかりを食べていたため、脚気が蔓延したという事が指摘されています。

歴史の暗い部分かもしれませんが、日頃から私達が行き来する道路が持つストーリーとして、世界に残していくべき、後世に残していくべきだと思います。

それから鉄道の敷設では、遠軽軽便鉄道が大正4年に敷設され、遠軽駅が同年に開設されています。遠軽駅は皆様がご存知のとおり、当時からそのまま増改築をしたきり、駅舎はそのままという事で非常に由緒のある、全国でも珍しい駅舎として残っています。その後、大正13年頃には石北線が遠軽の方まで延びるという計画ができて、石北線敷設工事の早期着工を求める運動が盛んに行われました。

この中で、語り草になっているのが「かぼちゃ団体の陳情」のお話です。遠軽の有志が上京して、かぼちゃを俵に詰めて東京へ送り、それを国会の控え室などで食べながら鉄道省や国会、政党本部などに石北線の早期敷設を求める請願活動をしたというお話です。「交通が不便なことによって輸送費がかさみ、貧しい農民は鉄道がなければ安い米が食べられない」と、この請願運動の中で強く訴えました。

この百姓風の異様な光景が東京の中の各新聞に「かぼちゃ団体の陳情」として報道された事で、民衆の同情を呼び、その様子を地方から見に来る人や、励ましに来る人が出た程だとされています。

関東大震災の翌年で、不穏な社会情勢もあり、警官の厳しい監視もあった様ですが、鉄道大臣への誓言の際には白滝の新保国平が前に進み出て「団長の言うとおりです」と言って泣き出した。陳情団だけでなく警察官までもらい泣きした。という風に素朴ですけれども悲痛なまでの熱意を持って請願活動がされたとい言われております。

このような陳情団をはじめとする早期敷設を求める運動の果てに、石北線敷設工事は確約を勝ち取ったという言われてます。また、帰町後も団長の市原多賀吉という人は関係大臣に俵に詰めたかぼちゃを、石北線が全線開通する昭和7年まで送り続け、かぼちゃ団体の悲痛な叫びを忘れさせないようにしたという後日談もあります。

遠軽町のその後の発展は、木材や農産物の輸送だけでなく、分岐駅となったり、機関区が置かれたことがその基になったといった事で、かぼちゃ団体の話は遠軽町史からそのまま読み取れる物語として非常に面白いエピソードだと思います。


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