えんがるストーリー構築プロジェクトシンポジウム



■佐々木

先程中村さんのお話には出てこなかったんですけども、遠軽開拓ではもう1つの重要な事があるんです、それは遠軽が薄荷の発祥地だという事なんです。

ご存知じゃない方も多いかと思います。今、一般的に薄荷というと、北見地方だと思われがちですが、最初に信太寿之ら入植者達が遠軽に入って来た年に洪水が起こり、全てが流されてしまったなかで、この開拓はもう駄目になるんじゃないかと言われた時、遠軽を救ったのが薄荷の栽培だったんです。

これは薄荷の発祥地という事で、町興しにも使える重要な歴史の素材だと思うのですが、伊藤さんはこの薄荷も含めて遠軽の原料にこだわった商品を作っておられるようですが、こういった歴史を知る事によって、それをビジネスに生かすという視点はございますか?

■伊藤

私は遠軽で生まれて育ったので、遠軽の水が良かったり、食べ物がおいしいという事を自分では良く知っていて、その結果が化粧品として遠くまで伝えたいという形で現在会社をやっているんですけども。

遠軽に来た事がない方、北海道と縁が薄い方には、遠軽と言ってもやはり想像が出来ないんです。どんな場所でどんな歴史があって、人の生活がどんな風にあるのか。

今の私達の会社のお客様は道外が6割、道内4割位のユーザー比率になっていますが、道外の販売だと、東京の百貨店さんの北海道展などに行って商品を紹介します。

そこで、北見の薄荷はもの凄く売れてますね。ちょっとこちらでは想像できない位のお客様が、連日百貨店さんにいらっしゃいます。私達の身近にあると薄荷はわざわざ買うというより、家の中のどこかにあったりしますよね。それが違うんですよ、1人で20本とか30本当り前に買って行かれます。北海道で薄荷は北見だという風に思われていて。

そこで、私達はじゃあ遠軽は?と言った時に1から説明を始めるんですけれども、来年の新商品に、遠軽町のアスパラからお肌をしっとりさせる成分っていうのを抽出したクリームを発売しようと思っています。遠軽のアスパラ、『遠軽にょっきーず』さんってスーパーなどで売られているのを召し上がった方もいるのではないかと思うんですけれども。このアスパラの保湿成分を入れて、モニターをした方から「香りが少しあったらいのでは」と言われたんです。そこで、「香りをどうしよう」と思った時に、「折角なら何か地域の事をお話できる物を作りたい。ただ良い匂いだけでは、なかなか遠軽の良さって伝わっていかないんじゃないか」と思った時に調べたのが、先ほど、佐々木さんがおっしゃってた薄荷だったんです。

私もやはり滝上だったり、北見の薄荷が今も作られてるという事もあるのですが、強いと思ってたんです。

でも、ひも解いていくと、その元々というのは本当にこの遠軽の学田農場、信太さん達の取り組みから始まっていて、そのノウハウが今のオホーツクの代表する薄荷の地域に伝わっているという事だったんです。

私はたまたま会社を起業した時に、遠軽産というものはごく僅かなんですけど、比較的最近まで和薄荷を栽培している所がいくつかありましたので、それを「いつか使えるかもしれない」と思い、原料で買い付けていました。

それを今回、少し香りとして使用しました。アスパラというのもほんの少し前までは遠軽でも非常に勢いがあり、出荷量も高かったもので、それを今また「にょっきーず」の人達が「もっとたくさんの人に知ってもらいたい」と思って取り組んでいます。

そこに薄荷の香りという当時の開拓の人達が頑張った気持ちを乗せて、お客様に伝えていけるっていう所では、これを言ったから売上げが上がるっていうよりも、買ってくれた方がその商品を選んで良かったって思えるような。商品の品質とはまた違う物語として、選んだ事が間違ってなかったと思える価値が出したりできるのではないかなと考えています。

■佐々木

安彦先生は今お話していた開拓の物語について、何かお感じになる所はありますか?

■安彦

知らなかったなぁ、薄荷は遠軽だよという事。僕の家は実は薄荷農家だったんです。親父はクリスチャンで薄荷を作ってました。

親父の口癖が「世界一の薄荷農家になる」と、子供心に「親父馬鹿言うんじゃないよ」って思ってたんだけど、はっはっは。親父はそういうバックグラウンドがあってそんな事言ってたんですね、今日初めて知りました。親父ごめんなさいって感じで。

■佐々木

今日はこうして歴史のお話から始めていますが、安彦先生の講演の中でも、色んな人物、遠軽に関わる人物を紹介してきました。その大きな時代の流れの中で歴史的背景から調べると、その人物を直接知らなくても、その人の思いや志が見えてくるので、そういって歴史を学んでいくのも面白いのではないかと思います。私もほっかいどう百年物語で12年間で600人の人物を書いてきたんですが、その中で遠軽は取り分け北海道の歴史の中でも開拓が遅いんです。明治20年代の最後の方から30年代にかけて開拓されたにも関わらず、これだけ沢山の面白い歴史っていうのがあるんです。

今回のシンポジウムのお話を頂く前にも、偶然に今年だけで5人の遠軽に関わる人を書いてきたんです。先程の信太寿之、植芝盛平。過去には家庭学校の留岡幸助も書きましたし、囚人道路とか、遠軽ではありませんが上湧別のチューリップのお話も書いたんです。

これだけ気候の厳しい土地で、函館とか小樽みたいな華やかな文明開化や商人が集まったとか、そういうのも無いかなと思いきや、北辺の地で何か特色を出そうと思って頑張った先人達がいたというのは、町の人達はそういった人たちの努力をもっと知る必要があると思います。

なぜ、そう思うかというと毎週ラジオを放送していて、お便りをいただくんです。そのお便りは地方の方が多くて、地方の方は自分の町に特色がない、田舎なので自分の町が好きじゃないという方が多いんです。ですがその町の人物を紹介することで、こんな歴史があった上に今の自分が生きてるのに、この町を嫌いだって言った自分が恥ずかしいとか。自分のルーツを知って、自分の町を誇りに思ったとか、そういうお便りをいただくんです。

ですからやはり歴史の話というのは人を励まして、自分の今の立場を見直すきっかけにもなるのではないかと思います。なので今日このお話が皆さんも自分の今の立場を見直すきっかけになれば良いなと思います。

先程、白滝の植芝盛平の話を、安彦先生にもしていただいたんですけども、今年はその白滝の開拓からちょうど100年目にあたるという事で、先日セレモニーが開れました。この白滝村の開拓団のリーダーが、合気道の開祖の植芝盛平だったという事で、中村さんからこちらのお話をお願いします。

■中村

今年の9月白滝開拓100年記念式典が行われました。植芝に関しては、白滝の有志の方が資料を調べ、まとめております。

植芝は、彼が29歳のときに和歌山から開拓団のリーダーとして白滝の開拓を進め、商店街、学校、神社など住みよい村づくりに努めました。この間、大凶作や大火災など苦難に遭遇していますが、それを乗り越えて薄荷栽培、造材事業などで成功を収めています。

彼が35歳の時には、当時の上湧別村議会議員にも当選しています。しかし当選した翌年の36歳の時に父の危篤の知らせを聞いて、和歌山田辺市へ帰郷することになりました。合気道の開祖が若き日に北海道の開拓を手がけた事は、世界中に発信できる価値があると思います。

また、白滝にいた時に遠軽の旅館に滞在していた大東流の合気柔術の祖、武田惣角に武術を習い、これを基にして合気道に発展させたと言われており、これは最もドラマチックな話なのかなと思います。

父の危篤で和歌山に帰る際には、武田惣角に家や畑を全て譲り渡しています。彼は白滝に来る前も東京で商売をしてた様なんですが、ここでも成功しかけた時にその会社を全部従業員に渡し、東京を去っているという事で、彼の人柄をあらわすエピソードとしては面白い話でないかと思います。

植芝は世界中に合気道の祖として尊敬されておりますけれども、白滝は彼が作った村として合併した遠軽においても誇りに思って語り継いでほしいと思います。


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