えんがるストーリー構築プロジェクトシンポジウム



■佐々木

やっぱり私達の番組でも、難しい文献などが最初にありまして、それをどういう風にしてわかりやすく子供から、小学生からお年寄りまで楽しんで聞いてもらうかという事、世の中の人に広めるというのが1番の重要なコツなんです。やっぱりそれは演出の力だと思いますね。

では次に、遠軽の郷土史から抽出したエピソードについて3つ中村さんにご紹介いただき、それに対しパネラーの皆さんからそれぞれの立場で培った視点でお話していただきたいと思います。まず始めに、遠軽の開拓で特徴的なのが、『キリスト教主義の大学設立を目指した団体による開墾』です。

信太寿之という人の名前が後ろの資料に載っていますが、中村さんからご説明をお願いします。

■中村

遠軽地域の本格的な開拓というのは、北海道の未開の地を開拓して、その土地から生じる利益で30年後にキリスト教大学の、私立大学を設立して、教育を重視した理想郷を作ろうという理念のもとに信太寿之ら「北海道同志教育会」という組織が作られ行われたという事です。ここまでは皆様よくご存知の事だと思います。

ぜひ当時の状況を想像しながらお話を聞いてください。まず、当時の遠軽の状況というのはどのような環境だったのか。

明治24年、北海道中央道路、現在の国道333ができて、25年に6号野上駅逓が作られました。

駅逓というのは現在の郵便局と旅館が合わさった機能を持った施設で、駅逓ごとに馬が置かれて駅逓から駅逓まで運賃を取って馬車で人や物を輸送する公共交通機関・運輸システムとして機能していました。

また、湧別から野上駅逓までの間の湧別基線道路、現在の国道242号の一部、これは明治25年に開通していて、道路の開伐幅は約27メートルで道路の造成幅は3.6メートル、国道と湧別川以外はほとんどが原生林で国道も緑のトンネルの中という状況だったと思います。

そのような状況の遠軽に北海道同志教育会の信太寿之らが視察探検に入ったのが明治29年で30年に開墾が始められた。北海道同志教育会の学田農場事務所は今の岩見通りのイトデン付近であったとされています。

同志教育会の開拓事業の中心人物は、札幌北1条教会の牧師だった信太寿之です。

彼は同志教育会の企画から設立、移住地の選定、現地の開墾の指揮、資金集めなどを行っていましたが、開墾後は薄荷栽培、稲作の導入、湧別線・石北線の鉄道誘致、敷地の寄付などという事で、創成期を語る際、第一に語られる人物の1人です。

しかし、今回当時の資料を見ていくと、信太とは別に注目すべき人物がいたという事に気付きました。

それは、野口芳太郎という人で同志教育会のモデルとなったとされる先駆的キリスト教主義による教育団体、浦臼の聖園農園から移って遠軽の開拓に関わり、明治29年の視察探検の際も信太に同行して移民の受入準備や、学田農場では事務主任として活躍していました。

その後、野口は学田農場を3年ほどで離れて、明治34年に遠軽郵便局が設立された時に、そのまま局長に就任しました。

同志教育会入植後は大洪水・不作が度重り、大量の脱落者を出したりして、14年ほどで理想郷の建設の夢には挫折し解散してしまいました。しかし、野口はキリスト教主義による理想郷づくりという理念を持ち続けて、キリスト教会の設立に尽力してきました。学校の建設・増築にも多額の寄付もしております。

一方、信太は事業家として遠軽町の骨格形成に多大な貢献を果たしたという事で語り継がれています、野口は同志教育会の設立理念を大事にし続け、一説では野口と信太の間で袂を分け合った、分かち合ったのではないかとも言われております。

教育による地域づくりに尽力し続けた野口は、遠軽創成期の両雄として語り継がれていってもいいのではないか、という事が今回の事業の、私達の調べた中で考えた事です。

また、同志教育会と別な動きですが、大正3年、留岡幸助により北海道家庭学校が遠軽に設立されています。

家庭学校についても、キリスト教と少年への教育という理念を持ってこの地にやって来ています。これは偶然とはいえ、何かこの地域にはあるのではないか?と考えさせられました。

■佐々木

皆さんご自身の町のこういった開拓物語は聞いた事がございましたか?今日初めて聞かれた方もいらっしゃるのではないかと思いますが、全道各地でクリスチャンによる団体入植というのは7ヶ所か8ヶ所位あったそうなんです。その中でも大学の設立という更に高い志を持って入植した団体というのは、本当に数少ないんです。そういった意味でも遠軽は、すばらしい理念を持った最初の人達が入って来た土地だと思います。

また、開拓の中心人物として、信太寿之と野口芳太郎という2人の人物の名前が挙がりましたが、この2人は盟友でありながらも考え方が違って、途中で袂を分かってしまいますけど、かたや信太は実業家として地域の産業の発展に力を注いで、また数々の挫折をバイタリティーで乗り越えたという人間味溢れる人物で、野口という人は最後までクリスチャンとして理想をぶれずに、初志貫徹したという人なんです。

この2人が遠軽の基盤を作ったという史実を、あえて対照的に取り上げる事で物語として面白い内容になるかと思います。

浅利先生にお伺いします。このような郷土史を次世代に語り継いでいく事は非常に重要な事だと思います、また、先生の校区は学田の地名が残っている地域です。現在小学校で取り組まれている事についてありましたらお話ください。

■浅利

今言われたように本校の校区の中には、学田という地名を残した所があります。校歌にも『みどりはのびる 学田大地』という校歌に残ってます、300名いる本校の児童の約1割が、その今の学田の地域から登校しています。

遠軽に入植した頃から学田だったという事については、3年生4年生の中で学習をしていきます。

今年出来た副読本を今年から使っています。小学校3年生4年生はその地域の学習をしていきます。たびたび改稿してちょうど今年、また作り変える年になりましたけれども。その中で、学習をしています。

3年生の段階ですと、副読本を活用しながら町内全体の建物、学校から離れた所にどんな所があるという事や学校の前のお店屋さん、郵便局などそういう所も学習していきます。4年生になるともう少し進み、遠軽から北海道に学習が広がります、その中で遠軽の歴史についても学んでいくことになります。

また、その時期に社会見学では町の方にバスを出していただいて、町内の色んな施設に行きます。

今年は4年生が郷土館へ行ってきました。その感想文を郷土館へ送ったら、郷土館の方がそれにお返事を書いてきてくれました。

そこでまた学び直しをした子供達がまた手紙を送ると、そうするとまたお手紙が送ってくるという事で、ほんの少しの間でしたけど一方通行の学びでなく、行ったり来たりという中で学びをしています。

それはこの旧遠軽町でそのような形で取り組んでいますけれども。遠くは生田原、白滝の方にも行きます。その逆もあって白滝地域の生徒さんも白滝の博物館だけでなくて、旧遠軽町の方まで来て学習しているという事もございます。

それが高学年になり日本史や世界史に繋がっていくと思います。


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