人の命を守り、文化を育てること~秋葉實が遺したもの
郷土史の保存運動へ~太平洋戦争従軍とローカルジャーナリスト
昭和15年(1940)15歳の頃、東京市深川区(現・江東区)の材木店の養子となった實は、陸軍少年通信兵学校を修了、そのまま太平洋戦争に通信兵として従軍しました。戦況が悪化した昭和20年(1945)8月、20歳になった實は特攻兵になることを志願します。出撃予定日が9月10日だと告げられた矢先の8月15日、ポツダム宣言受諾のラジオ放送がかかりました。終戦を迎えたことで特攻兵としての出兵は免れましたが、すでに多くの仲間たちが戦争で命を落としていました。
終戦後、日本大学法学部を中退した實は、故郷の丸瀬布へと戻りました。昭和21年(1946)、網走にて中原章三らが機関紙『オホーツク』を刊行します。この影響を受け、文芸誌的なものを発行しようと仲間たちと奔走。翌年、B5版4ページの『月刊山脈』第1号を発刊、約1400戸に配布しました。その後、『山脈』と名称をあらため、昭和30年(1955)に週刊化、編集長となった實は丸瀬布という地域の記録と情報発信に携わっていきます。
この頃より郷土史の編集を志していた實は、歴史を伝える郷土資料の散逸を防ぐため資料の収集を始めます。昭和31年(1956)、国有林業の合理化のため、北海道最後の森林鉄道として活躍していた武利線の廃線が決定したと聞きつけた實は、有志と共に保存運動に携わります。明治・大正期に日本の私鉄王と呼ばれた雨宮敬次郎が経営する雨宮製作所で製造された「雨宮号」のスクラップを阻止するため、時には私財も投じました。越前町長の理解も得ながら国と交渉を重ねた結果、旧雨宮19号は21号に名称をあらため、国内唯一の動態保存がなされることとなりました。
昭和37年(1962)、開拓50周年を迎えた丸瀬布は、町史編さんに向けて「開拓古老座談会」を開きました。戦中戦後からの復興という背景もあり、これまで美談として語られてきた開拓の歴史が、もともと丸瀬布に住んでいた心暖かなアイヌの人たちの助けがなければ叶わなかったと、古老たちの口から語られたのでした。これを受けて町は、丸瀬布にいたアイヌの川村熊吉さんを開拓功労者として顕彰しました。 昭和38年(1963)に現在も続く「丸瀬布郷土史研究会」を仲間と共に発足。町史編さんに携わっていた實は、明治以前の丸瀬布の歴史を調べるため、かつて丸瀬布に住んでいたアイヌの人たちの消息を辿って、旭川を訪ねました。