遠軽ストーリー構築プロジェクトシンポジウム 基調講演


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その話の中に、有名な津本陽先生が歴史小説として生き生きと書かれておられます。植芝さんが白滝から何か用事かあるいは聞きつけたのか、遠軽の某旅館に有名な武道家が来ておるぞというので、一手お手合わせと言って手合わせをした。するとこの武田惣角という人は、植芝さんも背が小さいけど、まだ輪をかけて背が小さくて、一説によると150cmなかったんですね。また、植芝さんはたいへん凛々しい顔なんですけど、武田惣角という人は一目見たら忘れないというような壊れたじゃがいもみたいな顔をしてたようなんですけども、この方と一手お手合わせした。そしたら腕に覚えがある盛平さんが武田惣角さんに全然歯が立たなかったんです。

で、恐れ入りましたっていうので弟子入りして、それで合気道じゃないんですけど、大東流柔術というんですけど、その柔術と総合して合気武道というのを確立され、今日の合気道がある。だから合気道の発祥の地は遠軽なんですよ。あまり知られてないんですね。

 

話があちこちいって申し訳ないんですけど、この間、内田樹というかなり有名な方で、神戸の大学で教授をなさってた方がいるんですけど、週刊誌見ると、“総選挙の見通しについて内田樹氏はこう語る”みたいなことがよく出てます。僕は週刊誌はあまり読まないんだけど、それでも何度か見かけます。そういう人なんですけれども、橋本さんが大嫌いな人なんですね。結構冗談で書いてて、そんな方ですけど、自宅を新築して道場を造った。対談をするっていうので、じゃあ自宅に来てくれよ!っていうんで対談したんですけど。

その時に話が終わってから内田さんに「僕の郷里は遠軽です。遠軽ご存知ですか?」って聞いたら、「どこですか?知りません」って言って「どういう字書くんですか?」「遠い軽い。で、遠軽っていうのは合気道発祥の地ですよ」って言ったら「うん?知らなかったなあ」「白滝はどうですか?」「白滝は知ってます。白滝は合気道の関係者たちに有名ですね。ただ白滝が合併して遠軽になったことは知らないし、たぶん白滝の地名は知ってるけど北海道のどこだか知らないというようなこともある。ただ、地名として白滝は合気道の人達は皆知っている。」ということでした。

 

冗談半分でしたが、「白滝を合気道の聖地にしようとか地元の人が言ってますが、講師に駆けつけてくれませんか?」と聞いたら「いや、うちには人手がない」とか、門弟が200人いるらしいですけど人手がないって。「合気道北見の方ではそういえばあまりないね」って言ってましたね。なんかそのようです。逆に「あの辺だったら網走に大東館の人が行くんでないですか?」なんて言ってました。大東館というのは大東流柔術の今に至る道場ですね。古式柔術の道場です。そこに惣角さんが最後にお住まいになってた。息子さんか誰かと一緒に。武田惣角という人は80いくつまで生きてるんですけど、放浪癖のある方で最後は青森の路上で行き倒れして、「なんかへんな爺さんが倒れてるよ」、「誰だ?」と調べてみると柔術家である。網走の家に連絡がいって「お宅の爺さんが青森で行き倒れたよ」と。

それが最後だったんですけども。網走が気に入って北海道を気に入って、道警の師範とかいろいろ仕事をなさって、最後は網走ですからよっぽど気に入っていたと。さっきも言ったように放浪癖がある人でいろんな伝説がある方ですから、もしかしたら明治22年に、たいして人のいない湧別原野をほっつき歩いててもあり得ない話じゃないんじゃないか、と思ってですね確信犯的に嘘を書きました。本当は大正初期に武田惣角さんはここに来られている。

 

また合気道の話しは後ろでちょっと触れると思うんですが、徳弘さんはさっきも言ったように土佐の郷士。明治15年に湧別原野に入植され、なぜ湧別に来た。明治15年というのはどういう年かというと、その前の年に、上湧別の払い下げに黒田清隆が関わって大問題になった。払い下げうんぬんの問題は、議会は開かなかったら駄目だということで、大きな政治問題に発展した大変な年だったんですけど、その年が15年。上湧別が払い下げでいろんな方に渡る。入植を希望する人には土地を払い下げるということが非常に頻繁に行われた時期だったと、たぶん想像します。


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