遠軽ストーリー構築プロジェクトシンポジウム 基調講演


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全くの余談なんですけど、ある時カミさんを通じて僕が聞いたんですけど、所沢に住んでいる僕のカミさんの友達が、「今も私のところには観艦式の招待状がくるのよ」って言った。その人の現姓は神田さんという方なんですが、うちのカミさんが聞いて「えー!?」って。それで、「なんで?」って聞いたら「私のご先祖がね加藤さんて人なんですよ。なんか偉かった人みたい。それでいまだにくるのよ」って、海上自衛隊の観艦式という、護衛艦に乗って観艦式を見物できる、総理大臣が船に乗って訓示をして一番先に招待客を乗せるっていうのがあるんですが。

それで「加藤さんって知ってる?」ってカミさんが僕に聞くから、「加藤さんってだれだろう?」「総理大臣までなった人らしい」「じゃあ友三郎さんしかいないんだけど、だとしたら凄い偉い人だよ」という話しを。

それだけのエピソードなんですけど。いるとこにはいるんですね。曾お爺さんかなんかじゃないですかね。「加藤って偉い人だったの?」「偉くてしかもいい意味で偉い方で良かった」って。偉いけどとんでもない人だったらちょっと困りますけどね。そんな話がほかにもありましたけど、所沢って言うのは首都圏より田舎ですけどいろんなことがあるなと。

 

つまり、北海道へ何を好んで開墾の苦労を買って出て、人生まともに生きられない人だったんだろうとか、あるいは孤独に逝くんだろうとか、なんかあったんじゃないのとかそういうことじゃなく、非常に優れた人材、優れた考えというのをお持ちで、しかもそれなりの、あるいはそれなり以上の方が志を高く抱いて北海道へ来るっていう一つの例ではないでしょうか。徳弘さんていう方。

ひとつ人生のチャンネルを変えて軍人あるいは政治家、あるいは実業家。そういった別のルートを辿ればおそらくそれなりの成功をなさった方だと。

 

そういった方が限りなく入植者第1号に近い状態で湧別原野に入って、湧別原野の開墾に着手されたということは、今日遠軽のイベントでも、遠軽とか湧別とか小っちゃいことは言いっこなしにしよう。ということを前提に、誇らしいことではないかと思うんです。そういう例がこの後のパネルディスカッションでもいろいろ出ると思います。僕の役割として、一つの例として徳弘正輝という人をそういう意味でご紹介して、話のきっかけにしたいなと思っております。

 

植芝盛平さんもその一人。植芝さんの出身地の紀州田辺というところも、いろいろいわれのある所で一番思い出すのは南方熊楠さんの地元なんですね。ネットで検索するとズラズラっとデータが出てきて、南方さんとお知り合いかな?なんて思いながらネット見てたら、神社合祀策反対運動というのが南方さんがやるんですけど、それに共鳴して植芝盛平が一緒に運動していく。
傍ら身体を鍛えて武道家の道も進まれて、さらに北海道の開拓を志すんですね。そういう方ですから当然人望が集まる。人望を集めて上湧別村会議員になって、それでそこに根を下ろせばいいものを、お父さんが亡くなるという事情もあるんですが、またそこを武田惣角という師匠に「お師匠、土地もなんもやるわ、俺は親爺が死ぬらしいから帰る」と紀州へ帰られる。これが大正の7、8年でしたかね。あまり長い間いないんです。7〜8年しかいなかったんですけど、大きな足跡を残して帰られる。

 

植芝さんもそのまま田辺に帰っとけばいいものを帰らないんですね。どういう事情なのか詳しいことは知りませんけど、途中で大本教に染まる。染まるって言うんですか、出口王仁三郎という非常にその当時風雲児のように有名だった方とお知り合いになる。親爺の病気が治るように祈祷に行ったというんですけど、京都府の綾部というところに行って、本当に本当の信者になるんですね。これ宗教の話ですからいいの悪いのという話しはできないですけど、植芝さんが本当の出口王仁三郎のなんかSPみたいな感じになった。


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