遠軽ストーリー構築プロジェクトシンポジウム 基調講演


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明治14年に湧別原野の最初の入植者の方が湧別へ入られた。日本一の研究者でおられる松浦武四郎さん。開盛にも来たそうですね。
昨日同級生と飲み会をやった時「おい知ってるか?松浦武四郎が開盛まで来たんだぞ。」って、そいつ今開盛に住んでいるんですけど。今日同級生来てないかな?最初の和人の方が明治14年に湧別に入ってこられてて、徳弘さんていう方は15年に入ってこられた。今現在は中湧別の神社があるんですが、あそこは元木材の工場かなんかだった。僕は一時汽車通で湧別にいたんですけども、行き来している時は確か木材の工場だった。

 

湧別の8号線から9号線にかけて、7号線ったら網走に行く道路ですね。それよりもっと市街地。8号線から9号線にかけて土地の払い下げを受けてそこに入った。最盛期で30町歩くらい9万坪の農地を耕したという記録があります。その後、明治30年に屯田兵が入ってきますけれども、屯田兵村の最も湧別寄りにあたるところです。その地図を前に見たことがあるのですが、そこに徳弘農場というのが記憶で載っていたと思います。

 

最後は、これもちょっと開盛が絡むんですけど、この本を読み返すと開盛にサケマスふ化場があって、息子さんがそこで働いていた。その息子さんは職場が変わって浦河の方へ移られて、徳弘さんの奥さんが亡くなって、奥さんアイヌ人なんですけど息子さんの所へ行って、財産は残さなかったけど幸せにというか安楽に亡くなった。82〜3歳で亡くなった。ということが書いてあります。

徳弘農場というのは今言ったように8号9号線に30ヘクタール、当時としては決して広くない。牛を7頭か8頭飼って農作物、豆やら作って品評会に出したら優等賞をもらった。土佐の郷士。郷士というのは百姓もやりますから、坂本竜馬で有名になりましたけれども、たぶんそういう才覚もあったと思いますが、自分の財産をつくろうとしないで小学校を創るってなった時に、「じゃあ僕がその土地を分けてやるからそこを使いなさい」って、そんな感じでまた土佐の人間が徳弘さんを頼ってきたりすると「おお、来たか来たか」と言って土地をちょっと分けてやる。
そんなことをやってるものだから農場は大発展を遂げることはなくて、結局そう豊かじゃない晩年でお亡くなりになった。それがいつ頃そうなったんですかね、神社になっております。ご存知の方もいると思います。たぶん中湧別神社って言うんじゃないでしょうか。中湧別に神社いくつあるのか。

「ああ、そうか」といって中湧別神社に行かれる方は用心してください。中湧別神社にはたちの悪いカラスが住んでおります。どうたちが悪いかというと、僕は後にも先にもカラスの爆撃で服汚されたのはそこだけです。主ですかね、そこ守ってるんです、カラスが。不穏な音がして、カラスがいるなと思ったら、上から爆弾が落ちてきました。汚されて。「ここは徳弘さんのいるところだからお前は出てけ」ってことなのかと思って退散したんですけど、今も神社あるでしょ、あれはいつ頃からあるんですかね。神社としては新しいところですね。

 

僕は「王道の狗」を書いた頃に“そうか、あそこに徳弘さんって人がいたのか。じゃあ行ってみなければ”というふうに中湧別に行ったんですね。そしたら神社がありました。そこのすぐ裏は湧別川です。昔そこはナオザネコタンと言われるコタンがあった。ナオザネコタンの近くを払い下げ受けて住んだんだけど、屯田兵が入ってくるっていうので、そのコタンにいたアイヌの方は川の向う側へ移転させられた。そこは川西という、今も地名がありますけど川西。そちらの方に移転させられた。その川西、まあナオザネコタンにいたアイヌの娘さんがたいへん器量の良い娘さんなんですけど、その方2号さんなんですけど結婚して、慎ましく暮らしていた。晩年はホウさんというんですけど、このホウさんも亡くなって寂しいけれども穏やかに暮らした。


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