遠軽ストーリー構築プロジェクトシンポジウム 基調講演
飯塚森蔵という人はどういうふうになったかと言うと、湧別へ来ている。湧別のこの時代ですから明治の中頃ですけれども、丸玉という旅館があった。湧別はそれこそ幕末の頃から漁場として栄えてますから旅館もある。島田さんという方が営んでいた丸玉という旅館に宿をとって、そこの娘さんとできた。それでこういう話しをしてると長くなるんですけど、最後は白糠のアイヌコタンで亡くなった。不幸な死に方をされている。なんの記録も残さずに死んだ。ということが、小池さんの調査で大体わかっている。後、書くことが無くなった訳じゃないんでしょうけど、その後アイヌの問題に話が及ぶんですね。湧別といえば徳弘さんという方がおられる。大変立派な方で、ということで話が徳弘さんの話になります。
小池さんも言っておられるんですけども、徳弘さんに関しては、上湧別町史に優れた研究が載っているようです。徳弘さんも上湧別町史から小池さんは引用して書かれております。上湧別町史を僕は持っていないんですが、持っておられる方も読んでおられる方もいると思いますが、僕の手元にはない。湧別町史はある。遠軽町史も持ってない。上湧別町史にどういうふうに載っているか分からないんですが、湧別町史には僅かに載っております。徳弘さん。井上伝蔵さんあるいは飯塚森蔵さんに僕も非常に共感を覚えて、小池さんという人の本を読んだんですけれど。
その辺りはまた話すと今日の演題に外れるんですけども、簡単に一つだけ言うとですね、まさに同世代の方がいっぱいおられますから、似たような思いを抱いた方もおられると思いますけども、昭和22年生まれの我々というのは、学生が大いに騒いだ時期でして、僕もよく言われる『はしか状態』になってですね、若いうちは左右に染まらないでどうするんだ、というふうに当時はよく言われてたものですけど、染まってちょっと騒ぎをやりました。
青森の弘前という大学だったんですが。それで1970年頃に行き詰って途方にくれて、明治の時代に騒動を起こした人たちが、やはり行き詰って余生を非常に苦労して生きられたということに対してシンパシーを感じたんですね。勝手な感傷かもしれませんけど。昔のそういう人達がいたんだ。それに比べると自分達は落ち込んでちゃいけない、なにかしないと。
ちょうどその頃最初にご紹介いただいたように、虫プロダクションに偶然拾われてアニメーションの仕事に入るんですけれど、そちらに対してはなかなか目的意識というか燃えるものを感じれないんですね。そういう状態で何を題材にするかっていうので、キザな言い方をしますと、はるか昔にちょうどその頃秩父事件100年ということで、そういった小池さんのような本がわりと出てまして、そういった本を読んで自分で自分を励ますような感じの時期がありました。
余談ですけど小池さんという方に手紙を出したことがあります。この方は東村山出身なんですね。東村山は所沢の隣で、所沢は埼玉、東村山は東京なんですけど、お手紙の返事いただきました。自分は東村山に生まれて、今北見にいる。あなたは北見で生まれて今所沢にいる、逆ですね。というような手紙をいただいた記憶があります。
これはちょっと政治の話に近くなるかもしれませんけど、小池喜孝さんという方はいわゆる民衆史という分野で活躍なさって、それをさらに丁寧に差別問題であるとか囚人であるとか、そういうことを本当に丹念に掘り起こして業績を上げられた。思想的にいうとかなり革新的な方だったんですね。
僕はその頃挫折した学生ですから左も右もないでただ落ち込んで、小池先生の本を読んで教えられながら、片方で若干腑に落ちないことがある。それは民衆史あるいは革新的な立場での歴史の影響っていうのは、それはあくまでも一つのやり方ではないか。大変生意気なことを言うと、人の生きる生き方というのは多種多様である。
簡単に言うと国家権力は悪い、それに対して抵抗する民衆は善である。という人間論はたぶん万能ではない。そのくらいの何となく漠然とした感じが当時の心情としてはあったんですね。ですから小池さんのこういった本を読みながらその部分についてはなかなか肯定し難い部分もあったんですが、あとは自分の心情で、伝蔵さんはどういう人だったのかな?森蔵さんは何を考えていたのかな?と、自分としては思いを巡らせて、さっき言った挫折した落ち込みのどん底にいる人間の個人的な感情ですね。だからあまり小池さんの民衆史の本を読んで元気にはならんわけですよ。そういう意味ではね。そんな70年代の始めの頃。