丸瀬布の開拓-岩井農場と水谷農場-
北海道の多くの土地は農場の開拓から始まっています。農場主が入った時をまちの開基としている例も珍しくなく、丸瀬布も開拓を行うために人々が本州から入った時を、町の始まりとしています。
現在の丸瀬布地域に最初に入ったのは、岩井藤三郎という人物で、彼はそれまで富山県の北野村で村長を務めていました。明治45年2月25日の雪深い時期、彼は仲間の長谷川久作、畑辰次郎と3人で、当時マウレセブと呼ばれていた地域へ入植。丸瀬布では、この日を開拓の始まりと定めています。
この頃になると、周囲にはすでに多くの入植者が住み着き、電信なども整っていたため、未開の土地でも入地しやすい状況となっていました。
岩井たちは最初に農場の仮事務所を建てることにし、マウレセブに入ってちょうど1ヶ月後の3月25日、掘立小屋の仮事務所を完成させました。しかし、6月になると岩井は本州に帰っていき、残された長谷川と畑は、新しく支配人となった高正清作と新たに共同生活を送ることになりました。
開墾地を整え、小作人を受け入れて、次第に農場を大きくしていくなかで、8年後の大正8年、3人のもとに驚くべき知らせが届きます。マウレセブへの入地を実現させた岩井藤三郎が亡くなったというのです。
これにより、農場は岩井の息子・光久が継承し、彼のもとで経営は行われていくことになりました。この頃になると、農場は28区画あったと言われ、20世帯ほどの小作人が入植していたと推測されています。
しかしこの農場も、大正11年には第3者に譲渡されることになりました。その新しい経営者も本州の人間でした。
岩井農場を買ったのは、大阪に住む商人・水谷政次郎でした。彼は「東洋のパン王」と言われた大実業家で、美味しいパンをつくるために、北海道で理想の小麦を栽培する夢を持っていました。
明治10年に四国の香川県高松市で生まれた水谷は、20歳で大阪に出て、小麦問屋に丁稚奉公に入ります。ある時、取引先のパン製造会社に小麦を届け、パンを生まれて初めて口にしたことで、小麦の活用がうどんだけでないことを知り、明治38年、イースト菌による製パン業として独立を果たしました。
当時は日清戦争・日露戦争が続き、軍用食料として乾パンの需要が急増していた時代。「マルキパン」と屋号を掲げ、明治44年に出品した「全国菓子飴大品評会」では、マルキパンの食パンが大賞を獲得するなど、やがて水谷は「東洋のパン王」と言われるようになっていきました。
さらに美味しいパンをつくりたいと考えた水谷が、世界の小麦粉の調査をしたところ、国内では北海道の小麦が最もパンづくりに適していることがわかりました。そこで大正7年、西多寄に1000町もの農場を開き、続いて大正11年には丸瀬布地域にも農場を開きます。この農場が、丸瀬布の開祖・岩井藤三郎が開いた農場で、息子の光久から譲渡されたものでした。
水谷はさらに千歳や小清水村にも土地を求め、アメリカから大型機械を導入して模範農場を築いていきます。ちなみに千歳の農場は、昭和初期、海軍省の飛行場建設用地として献納を求められ、のちに旧千歳空港となりました。
小清水村に住みながら、オホーツク地方で小麦栽培に励んだ水谷でしたが、ここで大きな問題が起こりました。関東大震災のために、旭川から網走までの石北線の鉄道工事が延期されたというのです。
もともと水谷は、石北線の開通を見込んで、丸瀬布の土地を手に入れていました。潤滑な物資輸送は、彼の壮大なパン製造計画の中で、最も重要な要素だったのです。
この問題は、地元住民たちにとっても死活問題でした。そこで水谷の呼びかけにより、地元の遠軽・丸瀬布・白滝地区住民ら52名による陳情団を結成。水谷は東京まで旅費のない彼らのために、1万円の大枚をはたいて陳情運動の資金を全額負担しました。
陳情団は国会に出向き、「鉄道が開通すれば買い物も便利になり、カボチャばかり食べずに済む」と訴えます。彼らが国会の控室でカボチャ弁当を食べていたことから、新聞紙面などに「カボチャ団体の陳情」と大きく報道され、その甲斐あって政府も動き、石北線は早期開通となりました。
水谷はその後、大日本製パン工業会長、大阪製パン工業組合理事長といった要職を歴任します。しかし、戦中は、戦火による工場の焼失と原料の入手難に襲われ、さらに戦後、北海道の広大な各農場は、農地解放の対象ともなります。彼は失意の中で昭和25年、小清水村でその生涯を閉じました。享年73歳。
丸瀬布では、村の恩人の水谷のために、村長を委員長として、村葬に準じた追悼会を行いました。
現在でも水谷政次郎ゆかりの名は、「マルキ通り」や「水谷橋」などとして残されています。開拓初期に丸瀬布を開いた人は他にも大勢いましたが、岩井藤三郎と水谷政次郎、この2人が町の礎を築いたと言っても過言ではありません。