STVラジオ ほっかいどう百年物語 信太 寿之
STVラジオ ほっかいどう百年物語 12年11月4日放送
信太 寿之(しだ としゆき)(1863〜1929)
遠軽の和人による歴史は、明治29年1月、キリスト教会を母体にした「北海道同志教育会」の創立によって開かれました。彼らは遠軽の地にキリスト教の私立大学を建設するという壮大な夢を持って、その第一歩を踏み出したのです。その指導者であるキリスト教宣教師、信太寿之は、度重なる困難と、事業の失敗の連続のなかで、入植者たちを奮い立たせ、命を削って村づくりに励みました。そしてこの地で亡くなり、文字通り、村の礎となったのです。
明治30年5月7日早朝、オホーツク海からようやく流氷も去った湧別の浜に、一隻の小さな船が着岸しました。続々と浜に降り立ったのは、リーダーの信太寿之率いる新潟県からの移民団、20世帯121名。それはこの沿岸では初めての大量上陸でした。
「この開拓村の中に大学を建てる。それが私に課せられた重要な役割だ」
34歳の宣教師・信太は、キリスト村と高等教育機関の建設に、熱い使命感を燃えたぎらせました。しかし、それは壮絶な開拓生活の始まりだったのです。
「北海道同志教育会」が、新天地にキリスト教の大学を建設しようという計画を立てたのは、これより1年前の明治29年のこと。この「北海道同志教育会」は、札幌のキリスト教宣教師たちによる組織で、未開墾地に農場を開き、小作人からの収益によって大学を建設して、青年たちに高等教育を授けようという高尚な計画のもと、結成された会でした。
中心となって働いた信太寿之は、秋田県の出身。家が貧しかったため、小学校に行かずに家業を手伝い、15歳の時に仙台に出て、8年ほど苦学を続けました。ここで、アメリカ帰りの東北学院長、押川方義と出会い、彼の経営するキリスト教大学、東北学院大学に入学。押川の影響でキリスト教の洗礼を受け、そして卒業と同時に札幌に赴任して、キリスト教の伝道活動に携わりました。
信太は、自分自身が大変な苦学を経て高等教育を身に付けた経験から、多くの青年たちに教育の機会を与えたいと考え、札幌の宣教師たちに呼びかけて、大学建設のための組織設立を計画します。さっそく出資者と入植者を集めるため、北海道を発ち、「同志教育会」設立の主旨を説きながら、東北、関東、遠くは四国まで足を延ばしました。途中、恩人の押川のもとに立ち寄り、協力を求めると、彼は信太の熱意に感動し、「同志教育会」の会長を引き受けたほか、3人の信者たちに、信太を助けるようにも指示。皆で手分けして全国をまわった結果、資金も集まり、新潟から120名ほどの団体入植者を得ることができたのです。
こうして事業はトントン拍子に進み、明治29年、「北海道同志教育会」が正式に発足。大学を建設する未開墾地は、現在の遠軽町である湧別原野学田地に決定しました。
そして翌年、第一次移住者が現地に入植します。信太は農場監督官として自ら現地入りし、人々は信太の熱意あふれる指導のもとで、開墾作業を進めていきました。
ところが、この年は春以来気温が低く、全国的にも不作の年でした。このため米の価格が高騰し、不況の波は北の果ての開墾地まで押し寄せました。この不況によって資本主も思うように集まらず、資金不足に陥ったため、小作人への食糧や日用品が当初の約束通り支給できませんでした。
粗末な掘立小屋で馬鈴薯ばかり食べる日が何日も続いた小作人たちからは、ついに借金を踏み倒して、故郷に逃げ帰る者が続出。事業は早くもつまずいてしまったのです。
信太「いや、事業に不安はつきものだ。ここで踏ん張れば必ず立て直せる」
信太はくじけず、翌年春、山形から第二次移住者70世帯を迎え入れます。移民団を歓迎する催しとして、大運動会を開催し、登山競技や相撲、競馬などで人々の不安を払拭し、意欲を高めることに成功しました。
この年は春から天候も良く、農作物も順調に生育し、信太はホッと胸をなでおろしました。
ところがここで再び不幸が襲います。8月上旬からひと月あまり降り続いた雨によって、未曾有の大水害が発生したのです。全道各地で死者、流出家屋が相次ぎ、湧別川もまた4メートル以上水かさを増し、農場の過半数を占める1400ヘクタールが泥水をかぶりました。これにより、収穫直前の農作物は全滅。渦巻く濁流を丘の上から眺めた信太たちは、あまりの凄惨な光景に言葉を失いました。
村人「やっぱり…北海道に住むなんて無理だ。信太さん、悪いことは言わねえ。こんな場所に大学なんぞ建てたって、誰も集まりっこねえよ。村ひとつできてねえんだから。こんなとこ、皆でさっさと引き揚げるべ」
信太「皆さん、待ってください。もう少し…、もう少しだけ…!」
開拓地からは離農者が続出し、さらに資本主たちも、北海道開拓に成功の見込みなしと払い込みを停止する始末。政府や道庁の救済策も一向に進まず、信太はすっかり自信を失ってしまいました。
信太「これからどうすればいいんだ…。私たちの計画はそれほど無謀なことだったのだろうか…」
理想郷建設の夢も破れ、茫然と過ごしていたある日、信太の家に、小山田利七という小作人がぶらりとやって来ました。その手には、なにやら見たこともない草が握られていました。
小山田「信太さん、これ知ってますか?ハッカ草というもんなんだが、大変な金になる草なんですよ」
信太「ほう、ハッカ草…。いい香りがする草だが、これがどうして金になるんだね」
信太は思わず身を乗り出して聞きました。
小山田「わしはここに来る前、山形でハッカ栽培をやってましてね。このハッカ草を干してから油を取って、その油を売るんですよ。こんな北国でハッカが出来るとは思わなかったけど、そのあたりに自生しているようだから、ここでも栽培できると思うんです」
もともと本州では早くからハッカ油が売買されていましたが、この湧別原野にも野生のハッカが自生していました。それに気づいた小山田は、同じ山形県からここに入植した小作人たちと相談しました。
小山田「なあ、こんな田舎で生きてくには、なにか特産品をつくらなきゃならない。幸いここには野生ハッカが自生してるくらいだから、北海道でもできるだろう。皆で信太さんを助けよう」
村人「だが、ハッカは相場の変動が激しい作物だ。もし失敗でもしたら」
小山田「だから試しだよ。それに今は相場が高値だ。やるなら今しかない」
3人の山形県人はハッカの種400キロを買い入れ、ハッカ栽培を始めました。
こうして明治32年の春、湧別原野・学田農場の片隅で、ハッカ栽培が始められました。それは、入植者のほとんどが知らぬ中で始められた密かな第一歩でした。郷里でハッカ栽培の腕を鳴らした小山田らは、山形から最新式の蒸留装置を取り寄せて、上質に育てたハッカ草からハッカ油をとることに成功します。そして、これを取引したところ、なんと当時としては巨額の97円50銭になったのです。
小山田「信太さん、やりました!予想どおり大儲けですよ!」
信太「なんと!97円で売れたというのか!よし、それなら農場全部にハッカを植えよう!」
小山田たちの努力をそばで見守っていた信太は、すっかりハッカに魅せられました。
小山田「えっ、いきなり全部だなんて無茶ですよ。少しずつ広げていかないと…」
信太「いや、心配はいらん。すでに市場は調査済みだ」
信太が東京の農商務省に問い合わせたところ、湧別地方の気候や土質が、ハッカ栽培に適していることが確認できたほか、現在ハッカの大部分は輸入に頼っているため、国内生産が広がるならおおいに有望で、十分に販売も可能という返事が返ってきていたのです。
信太「ハッカで農場の危機を救おう。莫大な借金もこれで返せるぞ!」
喜んだ信太は、さっそく小作人全員にハッカ栽培を命じました。そして、この年明治32年、農家1戸あたり30アールの畑から、2キロのハッカ油がとれました。それらすべてが高値で取引されたのです。
「学田農場で作っているハッカ草は大変な収益になる」。その噂はオホーツク周辺の村々に伝わり、ハッカはじわじわと広がっていきました。農場はハッカの種を買う近隣の農民たちであふれかえり、こうして信太率いる学田農場は、ようやく危機から這い上がったのです。
信太「まずは村づくりだ。基盤がしっかり出来さえすれば、大学建設も夢ではない。キリストの名における理想郷建設は終わったわけではない!」
信太の思いは、再び熱く燃え上がったのです。
度重なる不運にもめげず、農場を立て直し、小作人たちの生活を安定に導いた信太寿之。彼は、クリスチャンという宗教人のイメージからは程遠く、高潔というよりも、むしろ人間臭く、親しみやすい性格でした。事業には積極的に取り組んだものの、他のことには無頓着で、他のキリスト教徒から見れば、反神論者のようにも見えることもありました。妻もそんな夫を快く思わず、一度も農場を訪れることもなく、東京で別居生活を続けていました。
そういった世間の目を一切気にしない信太が、最も大事にしていたことは、キリスト教の布教と教育活動でした。大学建設を旗印に掲げて開拓に着手しただけあって、入植後、いち早く集会場を兼ねた教育場をつくり、子どもたちに読み書きや算数を教え始めたのです。これが、遠軽小学校の前身となりました。
また、水害や農作物の不作の時などは、小作人を自宅に呼んで、キリストの教えをこんこんと説きました。この集会が、明治36年に創立した、遠軽日本キリスト教会へと発展していくことになります。
彼の農場経営は、独裁的ではなく、あくまで民主的に話し合い、皆の意見を取り入れたうえで行われたものでした。そんな信太を、人々は指導者として大きな信頼を寄せ、また、彼自身も重要なことに気づいていきました。
信太「私は常に皆の幸せを考えてきたが、初心を忘れずに時期を待てば、私自身、神のご加護があるのだ。そうだ、人に施しをするのではない、私が人のために行動すること自体が私の幸せなのだ」
信太は、ハッカ景気の勢いに乗って、湧別村信部内(しぶない)に牧場を開設。牛や馬を買い入れ、牧畜を主としてスタートしました。同時に、牧場用地内に、マッチ軸木工場も設置し、30人の職工を雇って、
年間5千円の生産をあげるという、順調な滑り出しを見せました。しかし、所詮事業には素人。この多角経営には無理がありました。農場と牧場に加えて軸木工場までとなっては、「北海道同志教育会」から入る運営資金では全く足りなくなり、借金ばかりが膨らんでいったのです。
ある日、牧場に借金取りが押しかけ、信太は木陰で息をひそめましたが、見つかってしまいました。
男「やっとつかまえたぜ、信太さんよぉ。今日こそ借金を返してもらうぞ」
信太「金?そんなもの一銭もない。ないもんははらえんなぁ」
男「なにを!きさま!」
信太の開き直った態度に業を煮やした借金取りは、信太を組み伏せ、信太は泥の中に倒されました。しかし信太も負けずに応戦。その様子を、ハッカでともに一山あてた小山田がため息をついて眺めていました。
小山田「困ったもんだ。あの人のやり方はクリスチャンらしくない。キリスト教大学を築こうという高尚な精神はいったいどこへ行ったのだ。ハッカがあの人を狂わせたんだ…」
同じクリスチャンとして、小山田は信太に不信感を募らせました。
小山田「まったく、ハッカが儲かるとなれば、農場内全部にハッカをつくらせて相場にかける。キリスト教大学に無関係な土地会社に大金を投資して儲けようとする。私生活でも大酒は飲むし、家で働いている女性と深い仲になる。とても宣教師たる者の行動ではない」
小山田は農場内のクリスチャンたちと相談して、「北海道同志教育会」会長の押川方義に会いに行き、学田農場の現状を説明しました。
小山田「あの農場は、将来、キリスト教の大学を建て、農場などで働きながら学生が大学で学べるようにしようと始められたものです。しかし、同志教育会の資金が続かないために、今では農場の自営体制になってしまっています。これでは大学建設など夢のまた夢です」
村人「そうです、私たちは農場の小作人ですが、同時にキリスト教徒として、大学建設をと夢見ていたからこそ、農場の成功に希望をつないできたのです。しかし、その見通しもない今、あそこで頑張る意味がありません!」
押川は困り果てながらも、同志教育会からこれ以上の資金はどうやっても捻出できないと詫び、小山田たちはとぼとぼと帰路につきました。
小山田「仕方がない。わしらも早いとこ農場に見切りをつけて、自作農として自立しよう」
やがて、一人、また一人と主要メンバーが農場を去り、また、小作農の応募者も現れずに、当初の目的を達成しないまま、「北海道同志教育会」は解散のやむなきに至りました。
大正元年、学田農場は所有権が「北海道同志教育会」から信太寿之に移り、事実上、信太の農場となりました。しかし、こうして周囲に批判されながらも、信太自身は当初の目的を諦めてはいませんでした。農場内に「北見農事研究会」をつくり、プラウやハローといった西洋式農具を取り入れ、その普及に全力を注いだのです。信太は、この研究会に指導者を招いて、農作物栽培の新しい技術を学ぶための講習会を開いたほか、農作物品評会を開いて農業技術の普及を積極的に行いました。この北見農事研究会の活動は、北見管内の農業技術の向上に大きく貢献し、皮肉にも、自身の農場経営で成功したとは言えない信太が、他の地域の手助けをする結果となったのです。
信太「何をやっても失敗続きだ…。私には事業の才能はないのか。いや、諦めるにはまだ早い。次こそ成功するはずだ」
信太が最後の望みをかけて取り組んだのは、農場内の造田計画でした。当時は、米の価格が安定せずに、頻繁に各地で米騒動が起きていたため、信太は、農場内の人々に安心して米を食べさせたいとの思いから、80ヘクタールの水田をつくろうと思い立ったのです。
造田をするには灌がい水路の工事が必要ということで、付近の川から水を引くことにし、銀行に借金を頼み、道庁に通って補助金も得、信太は全財産をかけて工事に取り組みました。
信太「今度こそ、今度こそ!必ず!」
周囲の人々もこの水路の実現に期待を寄せ、信太の起死回生を応援しました。そしてついに工事は完成、水田に水が流れ、人々の希望は膨らんだのです。
ところがその後、またもや不幸が農場を襲いました。稲の穂もようやく実り始めた大正13年8月、降り続いた大雨による水害で、黄金の稲穂が広がる夢の光景は消え去ってしまったのです。これによって借金を返すあてはなくなり、細々と経営していた信部内牧場の土地のすべてが銀行の抵当に入ってしまいました。
自分の人生がどんどん下り坂の一途をたどる中でも、信太は宣教師としての役割を果たそうと懸命に奮闘しました。遠軽の発展のために、鉄道敷設運動の第一線に立ち、関東大震災の影響で着工が延期となった際は、地元有志50数名を集めて上京。信太をはじめとするこの陳情団が、議会の控室でカボチャを広げて食べたため、「カボチャ団体の陳情」と報道され、全国的にも有名になったことが、さらに鉄道敷設を早めました。こうした地道な運動が功を奏し、昭和2年、遠軽―丸瀬布間の石北線の開通により、遠軽は町として大きく発展していくことになるのです。こうした功績から、鉄道開通の翌昭和3年、65歳の信太は推されて道議会議員に立候補することになります。
信太「わしなど、もう財産もないし、なんの力もない。皆さんのお役には立てませんよ」
村人「金の力は関係ありません。信太さんは何度失敗しても立ち上がり、皆のために努力してくれました。これだけ皆に慕われているのですから、もうひと踏ん張りしてください」
人々の言葉に勇気づけられた信太は、学田農場を抵当に入れて選挙資金をつくり、そして、見事当選。遠軽地方では初の道議会議員となったのです。地元の人々の期待を一身に背負い、いよいよ政治の世界に飛び込んだ信太でしたが、その翌年、病のため66歳で他界してしまい、後には借金だけが残されました。
最後の最後まで、「人間臭い宣教師」として賛否両論を巻き起こしながらも、人々に愛された信太寿之は、その波乱の生涯を遠軽の地で終えたのです。
それから6年後の昭和10年、遠軽公園の一角に農場の人々が中心となり、信太を讃える記念碑が建てられました。遠軽の地にキリスト教大学を建てるという目的は達せられませんでしたが、信太の指導のもと、立派な農地と活気ある町がつくられたことを、人々は高く評価したのです。そこに掲げられた彼の高い理想は、死してなお消えることはないでしょう。
参考文献
「開拓の群像」北海道総務部行政資料室編 北海道発行
「風雪の群像」酒井勉著 日本農業新聞発行
「遠軽町百年史」遠軽町