金八峠
開山当時、この峠は体を隠すほどの大きな熊笹が生い茂る道なき道でした。また、そんな道をさらに熊よけの笛を吹きながら、ふところにピストルを入れ持ち歩くという状態が続いていました。
大正末年、名寄線の開通とともに流れは紋別経由となっていましたが、旭川・野付牛間の石北線施設工事が進行し鴻之舞からこの鉄道本線に通じる交通路が整備されることとなった昭和2年、鴻之舞鉱山からの路線選定をめぐり、遠軽と丸瀬布がしのぎを削り合いました。道庁からは調査官が数度にわたって現地へ派遣され、丸瀬布に通じる路線を選ぶべきか、それとも遠軽に出る道を選ぶべきかと検討されました。
道路ができればその地域の産業・開発が促進され、将来の町の発展にも大きく関わるということで、丸瀬布側では期成会を設け、道路誘致の猛運動を展開しました。
ここで登場するのが、丸瀬布の東町(後に遠軽町)にあった料亭「美濃家」の“金八”という芸者です。日頃、ひいきになっている方々の依頼でもあり、また、自分の住む町の死活問題につながるということで、調査に来たお客さんと聞けば、あらゆる努力をはらい、下にもおかぬもてなしであったことは想像に難くなく、かくして金八姐さんの努力が実を結び(?)道路は丸瀬布につくことになりました。
昭和6年12月、この鴻之舞、丸瀬布間道路の竣工日当日、官民一同が峠にさしかかって休息した時、この峠の名前をつけようということになった際、誰ということなく、この道路開通の蔭の力になって長い間働いてくれた金八の名を忘れぬために“金八峠”とその名をつけることになったと言われています。また、金八という言葉には末広がりや金が開くという意味で縁起がよいとされています。