野口芳太郎と遠軽教会


明治30年5月、農場監督 信太寿之の指導のもと、キリスト教主義の大学建設を夢見る北海道同志教育会学田農場の開墾事業が始まりました。遠軽に初めて開拓の鍬が入ったのがこの時であるとされています。このとき、信太の傍らには浦臼・聖園農園から移ってきた野口芳太郎がいました。彼は終生、学田農場の創立理念を実践し、遠軽教会の基礎を作るなど創成期の遠軽に大きな功績を残した人物です。 

野口芳太郎

野口芳太郎

明治2年、芳太郎は高知県に生まれました。このころ高知県は、幕末の坂本龍馬をはじめ、板垣退助や岩崎弥太郎など歴史に名を残す人材を多数輩出しており、自由民権運動の気風が最も盛んな土地でした。そして、彼も運動に傾倒していきます。

人間の平等を訴える自由民権の思想とキリストの教えの共通点からか、高知の自由民権運動指導者の多くはクリスチャンになっており、芳太郎も彼らの影響でキリスト教の洗礼を受けました。

その後、彼は大隈重信が創設した東京専門学校(早稲田大学の前身)に進み、明治25年に卒業。明治26年、高知自由民権運動の中心的人物で元衆議院議員の武市安哉の北海道を開拓し、キリスト教と教育を中心とする理想郷を作るという夢に賛同し、開拓団メンバーとして現在の浦臼町に渡りました。武市は、この農場を清教徒のアメリカ移住になぞらえて「聖園農場」と名付けました。

 

 明治29年、聖園農場同様にキリスト教と教育を趣旨として未開地開拓をすべく「北海道同志教育会」を設立した札幌の宣教師 信太寿之は、事業を開始するに当たりこの聖園農場に支援を求めました。これを受け、入植地選定の現地視察には、芳太郎ほか数名が信太に同行しました。信太はこの視察で湧別原野を入植地と見定め、翌年5月には第1回移民団を受け入れることとなりました。

 

翌明治30年、新潟を出航した学田農場への第1回移民団に芳太郎は小樽港において合流し、5月7日、湧別浜に上陸を果たしました。

学田農場で芳太郎は、事務主任として農場の運営計画の立案など中心的役割を果たすかたわら、自ら鋤鍬を持って開墾に当たり、小作人をねぎらい、移民団に慕われる存在でした。

しかし、数年もすると、生活や経済の基盤作りにばかり腐心し、キリスト教の布教に無頓着な信太に対し、農場創設理念を重んじる芳太郎は不満を持ちました。明治34年、彼は学田農場を辞し、初代遠軽郵便局長に転身しました。

 

学田農場による開拓事業は、入植初年の冷害、2年目の大水害など想像を上回る困難が相次ぎ、開拓理念だったキリスト教主義の理想郷と大学を創設するという夢は年を経るにつれ、薄れていきました。

そんな中で、開拓者青年たちの心の開拓を強く案じていたのが芳太郎でした。明治32年、彼は自宅に若者たちを集め、禁酒北見青年会を結成し、学問とキリストの教えを彼らにこんこんと説きました。明治37年には、薄荷の共同耕作の収益金などにより集会場が落成され、ここで毎年12月から4月まで冬期夜学校を開きました。やがてこの青年会は、「北見キリスト教青年会」に発展していきます。

ピアソン宣教師の応援を得て、明治38年に伝道教会が発足、明治39年には、初代牧師である山下善之牧師が着任するなど教会の形が着々と整い、遠軽でのキリスト教伝道活動も盛んになっていきました。

芳太郎は、このような教会設立への貢献のほかにも、小学校の新設・増築への多額の寄付、鉄道敷設運動への尽力など、生涯にわたり学田の発展に奉仕し続けました。

明治42年、徐々に発展を遂げる町を見届けながら、芳太郎は42歳の若さで逝去しました。

学田農場の夢であった大学建設はならなかったものの、彼の献身により立派なキリスト教会が残りました。

現在、大通南2丁目に建っている遠軽教会は、焼失にともない昭和6年に再建された建物ですが、遠軽町のシンボルの一つとなっています。

 

参考文献:「遠軽教会百年史」日本キリスト教会遠軽教会

     「北海道開拓者精神とキリスト教」白井暢明

現在の遠軽教会

焼失により昭和6年に再建された大通南2丁目にある現在の教会堂。北の王鉱山や家庭学校など遠軽にもゆかりのある建築家 田上義也の設計した札幌北1条教会を模して設計された。


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