水谷政次郎


水谷政次郎
年代:1877〜1950
カテゴリー: 人物 

気温が低く、日照時間が短い北海道では、明治の頃から稲作よりも畑作、特に麦を栽培するよう推奨されてきました。それを大正から昭和初期にかけて、オホーツク・小清水町で、大掛かりに行ったのが、水谷政次郎です。

「東洋のパン王」と呼ばれた彼は、皆に喜ばれるおいしいパンを作るため、北海道小麦に夢を託しました。その情熱は今、多くのパン職人に受け継がれています。パンに生き、小麦に生きた水谷政次郎の人生をお送りします。

西洋人の主食であったパンが日本で作られるようになったのは、幕末の頃。諸外国に開国を迫られていた幕府は、戦争が起こった時の事を想定し、持ち運びのしやすいパンを兵士たちの食糧にしようと考えたのが始まりでした。長崎からパン職人を呼び寄せて焼かせたパンは、現在の乾パンのような質素なもので、これが日本人のために作られた初めてのパンでした。

やがて、開国とともに文明開化が訪れ、横浜や神戸で外国人向けのホテルが増え始めると、パンは日本人の間に少しずつ知れ渡るようになります。しかし、西洋食のパンは、長年米に親しんできた庶民にとっては、やはり受け入れがたい存在でした。そんな時代、日本に新たな食文化を根付かせようと躍起になった若者がいました。それが、大阪に住む水谷政次郎です。

「俺が日本人の口に合う美味しいパンを作ってみせる!」

この一言から始まった彼のパン作りへの挑戦は、やがて日本の食文化を変え、北海道農業に大きな影響を与えていくことになったのです。

水谷政次郎は明治10年、四国・香川県で中村平三郎の次男として生まれます。家督を継げない次男のゆく末を案じた両親は、小学校高等科を終えた政次郎を肥料問屋に丁稚奉公させ、続いて19歳で小麦問屋に奉公させます。政次郎は、この小麦問屋の仕事が思いのほか気に入りました。当時小麦粉は、うどんやそうめんなどの麺類、鯛焼き、饅頭などの菓子作りに使われており、卸先に小麦粉を届ける際に、漂ってくる甘い匂いをかぐのが、政次郎の唯一の楽しみだったのです。

1年後、20歳になった政次郎はこんなことを考えました。

「俺も男として、いつかは自分の店を構えてみたい。一流の食が集まる大阪に行って修行しよう」明治30年、四国の小さな村から日本の台所・大阪へ出た政次郎は、大都会の活気に胸を躍らせながら、小麦問屋を営む水谷家に奉公に入りました。そして、独立という夢に向かって、小麦粉の品質や種類の目利きから取引の仕方、帳簿のつけ方まで懸命になって学びました。

そんなある日、政次郎は卸先で見たこともない食べ物を目にします。それは、パンという、西洋人の主食でした。

「さすが食の街・大阪だ。珍しいものがたくさんある。こんなものが小麦粉から作られるのか。いったいどうやって作るのだろう…」

手にとって一口かじってみると、固くてパサつきがあったものの、政次郎の好奇心を駆り立てるには十分でした。以来、パン製造会社に小麦を届ける際には、時間を忘れて作業に見入るほど、パン作りに夢中になりました。

何事にも熱心に取り組み、人当たりも良い政次郎を見込んだ水谷家の主人は、24歳の政次郎を一人娘ユキと結婚させ、婿養子に迎えます。名前も水谷政次郎と改め、結婚・独立と全てが順風満帆に進み始めたその頃、時代は日清戦争に続く北清事変が勃発し、軍用の食糧としてパンの需要が急増していました。戦場では敵に居場所を知らせてしまう煙はご法度なため、米と違って火を焚かなくても食べることのできるパンが、一躍脚光を浴びたのです。

明治37年に日露戦争が開戦すると、政次郎はこの戦争を商売の転機と考えます。

「儲けるなら、これからは粉屋よりパン屋の時代だ。パンの作り方ならさんざん見学させてもらったし、俺だってパンを作れるはずだ!」

パン製造業へと転身し、見よう見まねでパン作りを始めた政次郎。戦時中のことで、味の良し悪しに関係なく商売は大繁盛しましたが、1年半後、日露戦争が終結すると、たちまち軍隊向けパンの需要は激減。これは商売あがったりだ。頭を抱えて今後の対策を考えていたある日、戦地から戻った男性が、政次郎のもとを訪ねてきました。

「あなたが僕たちのパンを作っていた方ですか!あちらでは食べ物もなく、随分ひもじい思いをしましたが、配給されるパンを少しずつかじりながら、こうして無事帰ってくることができたんです。どうもありがとうございました!」

政次郎はその言葉に、鋭く胸をえぐられました。

「俺は今までどうやって儲けるか、そればかり考えてきた。パンを作ったのも、決して戦地へ行った人のことを思いやったわけではない。俺に…感謝される資格なんかない!」

自分の浅はかさを心から恥じた政次郎は、さらに衝撃的な事実を知ります。パン食を奨励された海軍の兵士たちは、皆健康で復員できましたが、米にこだわった陸軍は、ビタミンBが欠乏し、全動員数の2割にあたる20万人が脚気にかかり、そのうち3万人もの人々が亡くなったというのです。政次郎は、パンが人間にとって不可欠な栄養素を持っていることを改めて痛感しました。

「パンを知らない人たちにもパンを食べてもらおう!俺の作っていたパンが戦場で大勢の命を救っていたのなら、もっとおいしいパンを作って、みんなに心も体も栄養をつけてもらいたい!大勢の人に少しでも喜んでもらいたい!」

どうすれば日本の食文化にない食べ物を受け入れてもらえるか。政次郎は試行錯誤を繰り返し、これまでの乾パンタイプのものから、子供からお年寄りまで食べやすいよう、軟らかい蒸しパンを考案しました。

「おいしいパン、パンはいらんかねー」

荷車に積んで大阪の町を売り歩くと、人々は興味津々に集まってきました。

「パン?なんだいそりゃ。こんなもの食べられるのかい」

「西洋人は皆、米の代わりに食べています。戦争でも日本軍の食糧に使われたほど栄養満点なんですよ。試しに食べてみてください」

「どれどれ…うん、なかなかうまいじゃないか。子供のおやつにいいや」

食にうるさい大阪人にも、甘みがあって軟らかい政次郎のパンは好評でした。

「やった!皆喜んで食べてくれている!もっともっとうまいパンを作ろう!」

「マルキパン」と屋号を掲げ、パンの製造販売に一段と力を入れた矢先の明治42年、大阪で大火災が発生しました。被災者たちはその日の食べ物にも事欠く有様で、焼け跡に呆然と座りこみ、途方に暮れていました。

「このパンを食べて元気を出してください。お代は要りません。少しでも皆さんの笑顔が戻ってくれれば、私もパンを作ってきた甲斐があるというものです」

政次郎は、消火に走り回る消防隊員や焼け出された被災者たちのために、毎日のように煙がくすぶる焼け跡を回り、パンを配って歩きました。そのためついには経営資金も底をつき、材料を買うのが精一杯となりましたが、涙を流してパンにかぶりつく人々の笑顔を見るだけで、政次郎の心は癒されました。

こうしてパンは、庶民の間に少しずつ定着し始め、「マルキパン」の名も知れ渡るようになりました。

明治44年に開催された「全国菓子飴大品評会」では、並みいる全国の有名菓子の中から、マルキパンの「食パン」が見事大賞を獲得。日本一の称号を得た政次郎でしたが、そんな彼にも気がかりなことがありました。大阪にやって来る西洋人にマルキパンを食べてもらう時、決まって言われるのが、「西洋のパンはもっとうまい」という言葉だったのです。

「こんなに頑張っているのに悔しいなぁ。西洋人のパンと何が違うのだろう」

そこで彼は思い切って本場の味を確かめに行こうと決意。大正7年、満州のハルピンに渡り、美味しいと評判の店の商品を食べてみました。すると…。

「こ、こりゃうまい!こんなうまいパンは今まで食べたことがない!」

小麦粉やパンの知識は人一倍持っていると自負していた彼でしたが、そのパンは、香り、味、食感、全てが自分の作るものとは大きくかけ離れていたのです。

「これだ!俺はこんなパンが作りたかったんだ!」

こうしてハルピンのパン屋での弟子入り生活が始まりました。店の主人や先輩のパン職人たちから西洋風のパン作りの手ほどきを受けた政次郎は、徐々に自分のパンとの決定的な違いに気づきます。それは、粉の質でした。

「そうか、パン作りには硬質の小麦粉が不可欠だったんだ…。日本にそんな小麦粉があるだろうか」

1年間の修行を終え帰国すると、かつての米問屋時代の情報網を活かして、国内はもとより世界中の小麦粉の調査を始めます。その結果、国内では北海道の小麦が、最もパンに適していることがわかりました。北海道の土質でつくられた小麦は、国産小麦の中で最もグルテンの量が多く、したがって外国産に近い、ふんわりとした膨らみが出せるのです。

北海道の小麦の歴史は、明治9年、札幌に日本最初の製粉工場が建設されたことに始まっており、かつてはウラジオストックに輸出していたこともありました。開拓顧問のホーレス・ケプロンに小麦栽培を推奨されて以降、北海道では今なお各地で栽培が続けられていたのです。

「外国にばかり粉の輸入を頼っていては、戦争が始まればたちまちストップしてしまう。日本人の食べ物は日本の土地で作るのが一番だ。その方が農家の基盤がしっかりするし、戦時中の食糧問題にも対応できる。よし、決めたぞ!北海道に大きな小麦農場を作ろう!」

大正8年、政次郎42歳。パン作りの飽くなき情熱は、ついに日本の北の大地に注がれました。誰もが喜ぶおいしいパンを作りたいという、ただその一心で、彼は北海道での小麦栽培に挑戦していくのです。

(後半)

北海道での小麦栽培に挑戦することを決意した水谷政次郎は、さっそく北海道庁を訪れ、同郷の先輩である北海道長官、佐上信一に相談しました。そして、長官の勧めで、交通網が開けている、十勝の足寄に土地を購入し、小麦農場を開きました。地元の人々を雇い入れ、小麦の作付けにひと段落をつけると、政次郎は続いてアメリカへ視察に出かけます。

アメリカはすでに近代式の電気焙煎釜を使った製パン法の時代。田舎パン屋の知識しかない政次郎には、理解できないものばかりでした。

「イースト菌とな…。聞いたこともない言葉だ。日本のパン作りは、アメリカより数十年も遅れていたのか…。これは必死に勉強しなければならん!」

寝る間も惜しんでアメリカの最新技術を習得すると、直ちに帰国。すぐさま我が国初の「純粋培養イースト研究所」を作り、日本パン工業会を設立して、培養イーストによる製パン技術の普及に力を入れ始めました。

当時、パン工場はどこも秘密主義で、関係者以外、工場内には立ち入り禁止でしたが、政次郎は全て公開して、イーストを使った機械式の製パン技術を教え、パン製造法の技術革新に尽くしました。

「今や日本人もパンを口にするようになりましたが、それはあくまでおやつとしてにすぎません。私は食事の時に、ご飯に代わる主食としてパンを食べてもらいたいのです。そのためにもいっそうの品質向上を目指して、パンの普及に努めていくつもりです」

新しい技術を日本にもたらし、職人たちの指導に努めた政次郎は「大日本製パン工業会」の会長に推し出され、いつのまにか大阪のマルキパン店主から日本のパンの未来を担っていく立場となっていったのです。

このパン作りの技術革新と平行して、政次郎は国産の小麦作りにもますます力を入れていきました。大正10年には、先の足寄農場に続いて、オホーツク・小清水町にも50万坪の土地を買い入れ、小麦畑を開いたのです。

「このだだっ広い小麦畑は、なんでもパン業界のお偉いさんが作ったそうだ。どうも本気で北海道を小麦王国にしようとしているらしいぞ」

「地元の皆さん、私は北海道産の小麦粉を使って、世界一おいしいパンを作ろうと思っています。どうか、ご協力よろしくお願いいたします」

開墾作業には地元・小清水の住民たちも総出で手伝い、政次郎自ら鍬を振るって500ヘクタールの畑を耕しました。

政次郎の壮大な夢はとどまるところを知らず、同年、現在の遠軽町である丸瀬布村に農場をつくり、翌年の大正11年には千歳にも500ヘクタールの農場を開設。鍬やスキなどの農機具を使っての手作業が主流のこの時代に、政次郎はアメリカ式大農場経営を目指し、アメリカからトラクターやドリル、ハーベスターなどの大型機械を次々と導入しました。

当時、これだけの機械化一貫方式で農業を営んだのは、全国でもこの水谷農場が初めてでした。こうして、北海道各地に広大な農地を開いた水谷農場は、時代の最先端を行く機械化農場として、北海道はもとより、全国の農業関係機関から注目を集めたのです。

大阪のパン屋の店主がおいしいパン作りを追求して、たどり着いた北海道小麦。政次郎はその小麦栽培を自ら手がけるために、一年のほとんどを小清水農場で過ごしました。

はじめは収穫した小麦粉の質が思ったほど良い出来にはならなかったため、悩んだ末、アメリカやヨーロッパ、国産の春まき小麦、秋まき小麦など、あらゆるものを試作しました。しかし秋まき小麦は、収穫期に降る雨で品質が落ちたり、反対に春まき小麦は、雑草にやられて収穫が少なくなるなど、政次郎の苦労は絶えることがありませんでした。

収穫はトラクターけん引式のコンバインで刈り取り、乾燥させるのですが、大勢の雇い人を入れても、小清水の広大な農地では収穫だけで1ヶ月もかかり、さらに毎日の乾燥となると、非常に手間のかかる作業でした。

どの品種の小麦が北海道の土に適しているか、その収量性や品質のテストを重ね、肥料の配合にも苦心し、何とかパンづくりに可能な小麦品種を見出そうと懸命に努力を重ねる政次郎。その矢先、新たな問題が発生します。旭川から網走までの石北線の鉄道工事が延期されてしまったのです。

「どうしてだ!道内くまなく鉄道が通ったというのに、なんでうちのとこだけ来ないんだ…」

それまで名寄線経由で8時間もかかった旭川までの道のりが、石北線の開通で4時間も短縮されるということで、オホーツクの住民たちは、皆この石北線開通を心待ちにしていました。延期は大正12年に起こった関東大震災が原因でした。その復旧に国の予算がまわされたため、日本の最北にある小さな町村は後回しになったのです。

もともと小清水農場は、石北線開通を見越して開設したものでした。潤滑な物資輸送は、彼の計画のなかで、最も重要な要素だったのです。

「国会へ陳情しかない!それで少しでも工事開始が早まるのなら何だってする!」

大正13年、ついに遠軽・丸瀬布・白滝の住民ら50名で結成された陳情団が、国会に直訴運動に出かけます。東京までの旅費もない彼らのために、政次郎は1万円の大枚をはたいて、運動資金全額を負担しました。

交通網が発達していないために米が値上がりして食べられないという、陳情団の訴えは、国会の控室でカボチャ弁当を食べていたことから「カボチャ団体の陳情」と大きく報道され、ついに政府を動かしました。そして、遠軽地方の鉄道敷設を約束したのです。

こうして昭和2年、丸瀬布から始まった鉄道工事は5年後の昭和7年に終了。石北線がようやく全線開通となりました。小清水農場の開設から10年が過ぎ、水谷農場の小麦は、ついに全国から注目される最高級の小麦となっていました。

農場にはいつも日本中から見学者がやって来るようになり、その小麦で作る政次郎のパンは格段に美味しくなったと評判でした。全国ブランドとなったマルキパンは日本中から喜ばれるパンへと成長していたのです。

しかし時代は第二次世界大戦へ向けて歩んでおり、水谷農場は大きな転換を迫られます。千歳にある5百ヘクタールの農場は、海軍省の飛行場建設用地として献納を求められ、政次郎はそれに従うしかなくなったのです。この水谷農場の跡地につくられたのが、現在の新千歳空港なのです。

政次郎にとってさらに不運は重なり、昭和18年には一代で築いた大阪の製パン工場が、戦時体制による企業合同で、大阪府食糧営団に接収されてしまいます。パン一筋に生きてきた政次郎に残されたものは、足寄と小清水の農場のみでした。

「心配せんでもいい。住まいは小清水の農場で十分だ。パン工場も失ってしまったが、誰かがわしの工場を使って、日本にパン社会を築いてくれる。誰かが美味しいパンをみんなに届けて、笑顔をもたらせてくれる。その土台をわしが作れただけでも幸せだよ」

戦争が終結し、日本にも復興の兆しが見え始めた昭和25年、水谷政次郎は小清水で馬車から転落し、あっけなくその人生を閉じました。享年73。

何事にも研究熱心だった彼は、多くの人が気軽に乗れる馬車を作ろうと、細いタイヤを取り付けて馬に走らせました。その馬車に、まさに試乗していた最中に起きた事故だったのです。

北海道小麦にかけた生涯は、その完成を見ないまま、戦争で中断されてしまいましたが、彼が手がけた大型機械化農法による小麦耕作は、大農場経営の先駆者として、北海道に大きな足跡を残しました。そして、現在、オホーツクの交通の要衝となった遠軽の鉄道敷設についても、重要な役割を果たしました。

誰もがまだパンを知らない明治中期、「美味しいパンを日本中の人に食べさせたい」と思い立ち、数々の挑戦や技術革新を行った水谷政次郎の夢は、今、日本中の食卓で花を咲かせているのです。

参考文献

「風雪の群像」酒井勉著 日本農業新聞発行

「水谷政次郎伝 マルキパンの光と影」水知悠之介(みっともゆうのすけ)著 新風書房発行


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