天幕三次郎とカクレ沢
1896年(明治29年)8月21日、北海道庁技師の田辺朔郎が、鉄道敷設調査のため、旭川から天幕のルベシベ河畔に至った時のことです。
田辺朔郎とは、日本屈指の土木技術者で、のちに2代目道庁鉄道敷設部長を経て、京都帝大教授となる人物です。
その田辺らが率いる調査団一行がルベシベ河畔を訪れると、30歳位の男がフキの葉囲いの天幕に住み、ささやかな板小屋を建てて住んでいるのを見つけました。
「この辺で宿を探しているのですが」
「では、むさくるしいところですが、ぜひ我が家にお泊りください」
「天幕三次郎」と名乗るその男は、一行を快く迎えてくれたため、田辺たちは男を信頼して、ここで一泊することにしました。
すると男は、カンナなしの浴槽を急いでこしらえて風呂をたて、一行をもてなしました。
「寝床はここしかないのでどうぞお使いください。私は外の天幕で休みます」
「それではあまりにも申し訳ない」
「いえ、お国の大事な仕事している方々をもてなすのは、国民として当然の役目です」
男はそう言って、客人を板の間に寝かせ、自分はフキの葉で作った天幕(今でいうテント)で一夜を明かしました。
この至れり尽くせりの誠意に、田辺たちはいたく感動し、男に何度も礼を言ってルベシベを後にしました。
この三次郎という男、幕府旗本とメノコ(アイヌの女性)の三男で、本名を清水三次郎といいました。『国沢歴蔵自伝』によると、1890年(明治23年)からこの地に住み着き、翌年8月頃から猟業をなりわいとして暮らしており、中央道路測量の天幕を張った場所に居住したことにちなんで、自らの姓を「天幕」と称したといいます。1897年(明治30年)頃になると、広い家を建てて馬を数頭飼い、この場所を通る旅行者を宿泊させたり、馬を貸し出すなど、私設駅逓の役割も果たしていました。
その後、連れ子のある未亡人と同棲しましたが、未亡人の連れ子であるお花さんと恋愛関係になってしまい、1903年(明治36年)、ついにお花さんと駆け落ち。逃避行先の六号野上駅逓で、三次郎は駅逓夫として慎ましく働きました。
しかし、やがてこの地域の住民の間に、三次郎とお花さんの噂話が広まってしまいます。せっかく新しい人生をと始めた六号野上での生活も、住民たちに色眼鏡で見られることに嫌気がさした2人は、1年後の1904年(明治37年)10月、中央道路の郵便逓送が廃止されたのを機に、人里離れた瀬戸瀬の隠れ沢に移り、再び猟業の生活に入りました。
ところが翌年春、なぜかお花さんだけがしょんぼりと六号野上駅逓に戻ってきました。住民たちが
「三次郎はどうした」と聞くと、
「熊の被害に遭って死亡し、原生林の中に一人で暮らすことは出来ずに引き揚げてきた」ということでした。
お花さんはその後、湧別屯田兵の佐藤小三郎と結婚して夫婦で白滝で旅館を営み、のちに雄武に移って時計店を開業しました。
それから月日が流れ、1933年(昭和8年)6月、73歳となった田辺朔郎博士が北海道視察に訪れ汽車で「天幕駅」を通過する際、博士は38年前の出来事を思い出しました。
「天幕駅…、そういえば、あの時世話になった男は天幕三次郎と言ったな。あれほどの好意にたいした礼も出来ずにいたが、今こそ恩返しがしたい」
そう思い立ち、遠軽駅に到着後、津田貞駅長にこのように言いました。
「天幕の駅名となった天幕三次郎は私の昔の恩人である。おそらく亡くなっているであろうが、もし遺族がいたらこれを届けて欲しい」と、金一封の香料を託しました。
駅長は、さっそく遺族の消息を尋ね、雄武に住むお花さんのもとへ香料を届けたところ、彼女はいたく感激しました。さらに、駅長のお花さんへのはからいにより、旭川駅に立ち寄った博士との鉄道電話で、三次郎の思い出話が交わされたという後日譚もあります。〔北海タイムス昭和8年6月5日号〕
平成4年、隠れ沢は字名改正に伴って、栄野地区になりましたが、もともとこの地域は「隠れ沢」ではなく、地元住民から「隠し沢」と呼ばれていました。それは、三次郎とお花さんが駆け落ちして隠棲したことに由来したものでありました。しかし、次第に開拓が進み人口が増えてくると、そんな地名では聞こえが悪いということで「隠れ沢」と呼び改められたといいます。
(新丸瀬布町史下巻 平成6年5月1日)
引用文献
新丸瀬布町史下巻 平成6年5月1日