アイヌと開拓者の関わり


村山カイカウック(46)
年代:開拓当時
カテゴリー: 人物 言い伝え 

 開拓当時の経験・体験や当時のことについて聞いた話などを総合すると、内地(本州)から気候・風土の全く異なる未開の地に来たものの、衣・食・住の果てから何も術がなかったと思われます。そのような中で入植し、どうして生き永らえ今日に至ったのか。それらのことがこの『故郷の歴史を語る会』の中で語られ、随所にアイヌとの関わりが述べられています。

 当時の人は、内地から持ち込み、運ばれてきたごく限られた食糧だけでは生活できるはずもなく、また、極寒の中でどう過ごしたのか。魚の取り方、山野草の食べ方、薬草、履物や熊対策等々、アイヌ民族から数多く学びながら、あるいは見聞しながら、当時の生活基盤を築き上げていったようで、そういった意味では、郷土史研究の第一人者秋葉實氏が、「直接アイヌの人たちから教わった人もいるけれども、そうでない人でもアイヌの人たちの北海道における生活の知恵が生かされて成功したんだろう」と述べているとおり、確かにアイヌの存在は大きかったと思われます。
 昭和59~60(1984~85)年、教育委員会の事業により、入植当時の遠軽について各地域の古老に聴き取りをした資料の中から、関係ある話について抜粋しました。また、会話の内容が方言・なまり・言い回し等分りにくい部分については標準語に近く分りやすい内容に修正をして記述し、( )書きについては聴き取りをした地域名を記載してあります。

(社名渕)
 この人がやはり四国の人で同一県だから、家では湧別に上がった。この人が、湧別というのは開拓に入ってもアイヌが火をつけて焼くもんだから危なくておれなかった。だから「そんなところへ居るんならこっちへ来い」というわけで来た。
 湧別にいた時の話で、葦原(よしはら)の中でアイヌは熊が恐ろしいから春先絶対に火をつける。麦やイナキビが採れたけれども、風の向きで草小屋が燃えて、あんな苦しいことはなかった。アイヌだからこうだと言ってもそんなことは受け入れないし、どうしようもなかった。
 アイヌにアキアジの皮をむいてもらって「冬はこれをはきなさい」と言って履いたものだ。ほとんどはブドウの皮。アイヌはブドウの皮を使ったんだろう。それからトウキビのからで草履を作った。アイヌの方がずっと生活が進んでいた。

(清川)
 うちではここに来る前に瀬戸瀬にいた。何故瀬戸瀬にいたかというと、中沢駅逓の荷物上げのために親父が馬と馬車を買って、下白滝から白滝まで行った。そのために母親は中沢駅逓の女中奉公をして、両親別々に生活していた。
 その当時、瀬戸瀬にはアイヌしかいない。駅近くやコタンの沢、瀬戸瀬の中沢が、今の瀬戸瀬川を利用してマッチの軸木を作る工場を建てた。それから「お前らもやめて工場で働いてくれ」ということになって、工場で働いたものだ。だから地元には、アイヌの他には、工場で働く和人しかいなかった。
 昭和の初め頃まで瀬戸瀬にアイヌがいて、結構遊んだと言っていた。よく瀬戸瀬を通る時、アイヌから熊の肉なんかもらってきた。他にも丸木舟を作ってもらったり、魚とる網を作ってもらったり…。うちの親父はよその親父と違って「アイヌの付き合いは汚いからいやだ」と、そんなところへ行かない。
 アイヌはニコニコして飲むわけなんだが。アイヌに盃もらって飲むから友達になって、よく焼酎持って遊びにきたもんだ。
 焼酎は下湧別の店から買ってきた。アイヌも物を交換して買ってきたり、駅逓に上げたものを買ってきた。笹原の爺さんあたりもアイヌを知ってたな。
 あれだけ魚とりが好きな爺さんだもん。ここに来たのはあの人は遅いんだ。アイヌは大分遅くまでいたな。だけど子供の頃は怖かった。アイヌを見たらひげを生やして、冬だったら毛皮着て、足にはアキアジの皮を履いて歩いていた。
子供の頃はわざといたずらして歩くんだ。気持ちは悪いし怖かった。夫婦で木工場へ働きに行くため、アイヌの夫人を連れてきて、畑の草取りの仕事をさせているのを見た。
 明治の終わりだな。その頃アイヌの出面賃はいくらかというと12銭もらう。でも勘定がわからないので、10銭と2銭だけやると3枚しかないから、手のひらに上げて見ているだけで貰っていかない。1銭だけ12枚やると大喜び。
 我々は3つ位からアイヌの子供とばかり遊びに行った。で、ここでもアイヌはやっぱり毎年熊祭りをやっていた。そしてこんな小さな箱に熊の子をとってきて飼っておく。熊祭りをやるくらいだから大分アイヌがいたんだね。瀬戸瀬にコタンの沢があったから、熊送りは瀬戸瀬でやったんだろう。熊祭りを見に行くと熊がかかってきそうで、箱の上に乗って見ていた。
 岸野君の川縁の所に鹿の骨だか熊の骨だかがいっぱいあったそうだ。それは今、堀り返しても、あるか水に流されたかわからないが、私がミンクをやった時に、ここにもあったって言ってたよ。あそこはやはりアイヌが住んでいたところでないだろうか。いや、鹿をとってきて川縁で解体してたんでないだろうか。いつも同じ所でやったから、骨がたくさんあったんでないかな。鹿というやつは北海道にたくさんいた。だからアイヌは鹿をとって、肉を食料にして…。

(瀬戸瀬)
 この間清川で一番古い井上さんから聞いたのですが、瀬戸瀬にアイヌがたくさんいたのでアイヌの熊祭りを毎年やったらしい。僕等も子供の時、アイヌがしょっちゅう来てアキアジを干したものだとか、カボチャをばくって(交換)くれと言ってきたのを覚えています。
(質問:それは何時ごろですか)
 私の小さい時ですから大正の初期ですね。佐藤さん、清川にいたでしょう。小屋あったの、記憶がある?奥瀬戸瀬の植民地は、うちの所から阿部さんの所まで。うちのあの川をアイヌ語でいうと「セタニウシトルコ川」というのだが、それでその川のこちら側(道々が走っている側)、阿部さんとこまで第1回の植民地払い下げになった。さっきの熊取の話と、古潭の沢熊祭りというのは知らんけど、アイヌはこの下の川縁に1人いたのは覚えている。2、3人いたな。 
 アイヌがそこへ住んだというのは、大正11年に大洪水があったでしょう。あの年からあそこが築堤されるまで、…中略… そこで鱒とりをやっていた覚えがあるけれど、トーキビだかカボチャだか芋だか持っていけば、魚と交換してくれた。
 アイヌは焼酎が好きで、焼酎を飲んでヤマメを生で食うんだ。今でも刺身で食べるが、アイヌは魚でも頭しか食べない。頭が美味しいんだ。アザラシと同じだ。あそこに2、3年いた。あれは大正11年から12年。まあ熊祭りやったというんだから、かなり人数がいたんだろうね。
 町史にも出ていますね。最終的には上川の方へ行ったらしいですよ。ただ、アイヌ踊りなどの話を聞いたことがない。前に誰だったか、昭和の初めころまでは駅の近くに結構いて、アイヌと遊んだという人がいました。古潭沢の入り口のところにはいた。熊祭りか何かは分からないが、焼酎飲んで夫婦で踊っていたのを僕は見ている。

(向遠軽)
 アイヌの人たちはアキアジの皮も使った。しかしアイヌと言うけど、僕等アイヌと何も付き合ったことないね。あるかい、あんた方。
(質問:アイヌはいなかったんですか。瀬戸瀬では大分話が出たんです)
うちの親父は、あそこの大江健治さんの出水の所にはしばらくいたと言っていたね。高島さんのこっち〇〇さんのところに出水あるでしょう。あそこにアイヌがいたということは言っていた。来た当時にね。アキアジの皮も使った、アイヌの人たち。

(豊里)
 今の千棒君の下の川の側にアイヌが家を建てて、アキアジをとったり熊の皮をとって生活していた。私は隣なものだからもの好きで、15、16の頃にアイヌのところへ遊びに行っていた。「こういう熊が出たらどうだ」「熊が出たら鉄砲か何かじゃ危ないから、熊が出たら追い払うのには『がんび皮』(白樺の皮)、その当時はいくらでもあったんですが、それをを持って行って火をつけて投げれば逃げる」と教えられて、今でも山へ行く時は『がんび皮』とマッチ持って歩いている。他の武器ではだめだ。
 で、度胸があったら「山へ入る時は出刃包丁1丁持っていく。人を見たら熊は立つ。立ったならば、その出刃包丁で熊の下に入ってのど突けば取れる」と言う。アイヌはそうするんだが、それだけの自信がなかったら『がんび皮』を投げて逃げた方がいい、というのがアイヌの教えだった。

(質問:さっきアイヌの話が出ましたが、大分いたんですか)
 中湧別と瀬戸瀬におったんでしょう。いや、千棒君の向こうの…。
(質問:瀬戸瀬の古澤、今でもコタンという名で?)
 そうだね。物をとって売りに行ったりするんだから。今、渡辺さんのいた所に何ていう名前の店だったかがあって、そこに隣に住んでいたアイヌと一緒に毛皮とかを買いに行った。アイヌの人は店屋が嫌いなもんだから、僕が通訳して買い物を斡旋したりした。
(質問:出口さんとあった頃は日常の会話なんか簡単にできたんですか?)
 何故かそこに娘がいて、やっぱり我々のことを「シャモ、シャモ」って言って非常に慕ってくれて、何かを持ってきてくれたり、山へ遊びに来てくれるように指導してくれたり、アキアジをとるのを教えてくれた。もう飯場(はんば)どころでなく自分の家の者のようにして付き合ってくれたものです。日本語でみなわかります。ナマリの特徴はあるけども…。
(質問:その当時、アイヌ同士はアイヌ語で話していたんでしょう。熊はいたんですか?)
いました。私なんかは馬小屋に熊が来て、馬がフーフーって唸るんです。恐ろしくて、「熊を追い払うにはどうしたらいいか」って…当時はアイヌがいたから。

(秋葉 實氏) 中央道路開削と野上駅逓から
 アイヌの人がその当時まだいたからまだよかったんですね。こっちの方に丸瀬布、それから36年位に瀬戸瀬にやって来ましたから、湧別アイヌはその頃になるとみんな今の川西というんですか、あそこへ屯田兵を入れるために全部引き揚げさせて、中湧の川向に押し込めちゃったんですね。
(質問:丸瀬布には当時アイヌの方々はどの位いたんですか?)
大体10家族位ですか。
(質問:瀬戸瀬に聴き取りに行った時にもその話がでたんですが、瀬戸瀬にはどのくらいいたんですか?)
 5・6軒ですね。丸瀬布に来てその一部が30何年かに中沢牧場に入って、古潭沢という名前になっても何年かいて、また丸瀬布にもどって来たんです。大正の始め頃向こうへ引き揚げた。その一部が丸瀬布に残っていましたけど。

 話が飛ぶんですが、ずっと昔は武利にいたんだろうというんですね。文化4年に滝田川伝次郎が書いた「西エゾ地日誌」というのを見ると、湧別には大人、いわゆる尊長が二人いた。一人は「サケテカイ」っていう人物で、一人は何て言うんでしたか。この「サケテカイ」がおそらく上武利にいたんでないかと。その頃の地図を見ると、武利にコタンが載ってるんですね。で、文化のあと10年位経って文政になると武利コタンが消滅しているのです。

…中略…そして、親爺が死んだら故郷が恋しくなって帰ってきた。やっぱり故郷へ帰ってくるんですね。全然見も知らないところへは行かない。「サケテカイ」のひこ孫ですから、先祖の土地へ帰ってきて、この辺にいた。それで、この駅逓なども付き合いがあったんで、どこどこに誰がいた、彼がいたということは皆知ってるわけですね。
 57年に59で亡くなった荒井シヤグルって婆ちゃん、角谷の爺ちゃんよりちょっと若い位の人の叔父なんかも野上駅逓で働いているわけです。熊田マカンチヤシって、これは角谷の爺ちゃんなんかも知っていましたけども。駅逓もそうなんですが、この地方の開拓の成功は、直接的、間接的の違いがあっても、アイヌの人たちの北海道における生活の知恵っていうんですか、そういったものが生かされたから、成功したんでないかといえると思うんですね。
 例えば、来てすぐにおがみ小屋っていう笹小屋をつくったんですが、これはアイヌの丸?小屋っていうんですもね。それから今度は、野草の食べ方を教えてもらい覚えたんです。「これ食べるんだ」「あれ食べるんだ」と。
 私が子供の頃などは、自然の薬やシコロの皮を染物なんかに使いましたね。ウコギは今みたいに言わなかったですが、ヨモギの葉を血止めにするとか。みんなアイヌの人たちの知恵ですね。
それからアキアジの獲り方、勿論密漁なんだけれども、うちらの親爺なんかも、こういうことはアイヌの人たち、川村さんに教えてもらったんだと言っていました。
 シナの木の使い方とか、シナの皮やブドウのつるを昔よく編んでましたね。北海道では縄がとれませんから、あれらを紐のかわりにして使った。直接アイヌの人たちから教わった人もいるけれども、そうでない人でもアイヌの人たちの北海道における生活の知恵が生かされて、開拓が成功したんだろうと。それがなければ、ちょうど中央道路の開削みたいな調子で、内地の文化か生活をそのまま持ってきたのでは成り立たないわけですから。そうですね。

 

引用文献

中央道路開削

明治24年、中央道路開削において犠牲者が非常に出た。遠軽町史には186人になっていますが、大体野上あたりから上越までの犠牲者が186人で、網走から大体野上あたりまでの犠牲者が56人だったかな。全部で211人ですからその差額ですね。  211人のうち、大体野上・上越間の犠牲者が186人で、この年不思議なことに、因果だとゆうのは麦が高くなったわけです。麦が高くなったんで、麦の調達の悪い所は米だけ食わしてもよいということになって、米だけ食わしたらしい。  ですが千人からの食糧運搬といったらひどいもんですね。野菜なんかも充分に補給がつかなかったということで、昔の内地の人ですから。看守なんかは殆んど鹿児島の人が多かったのです。  そこで大事なことは、ほんとうはアイヌの知恵を学べばよかったんです。野菜を食べさせたり、あるいはアキアジを食べさせていればそうならなかったのだが、結局内地から持ってきたものだけを食わしたもんだから、みんなカッケになってしまった。風土病といいますか。それで、バタバタといっちゃった。  やはり中には国事犯ですか、そういった人もいるんでまだハッキリ名前はわからなないんですが、死んだ人の中には国事犯はいないんですけども、国事犯でもってここへ来たような人も、名前一寸忘れましたが、○蔵吉とゆう人あたりはこの辺の作業に使われていたんだろうと推定される。


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