かぼちゃ団体の陳情


  石北線(旭川〜網走間)の鉄道敷設請願運動は明治43年に始まり、15年の長きにわたって関係町村長や住民代表による激しい運動が展開されていました。

 この一帯は交通の便が非常に悪く、遠軽〜旭川間は名寄線経由で8時間あまりを要したため、食糧や生活物資の輸送費がかさみ、他の地域より物価が高くなっていました。特に白滝では、遠軽までの10里余(40㎞)の道のりを、出生、死亡届、生活物資の調達、農産物の搬出など、すべて徒歩や駄馬で往復しなければならなく、鉄道の早期敷設は地域住民の悲願でもありました。
 ところが大正13年、政府は石北線敷設工事を延期することを決定します。その理由は、第一次世界大戦の深刻な不況に加え、前年に発生した関東大震災の災害復旧に伴う財政緊縮策をとったためです。
 これに驚いたのは、遠軽をはじめとする北見地方の住民たちでした。石北線の開通により、遠軽〜旭川間が4時間も短縮される見込みであったため、延期の影響は大きく、それまで分岐点で争っていた生野地域も、延期の知らせには驚きを隠せず、
「石北トンネルの工事費の関係で延期されたのであれば、トンネルを繰り延べされてもやむを得ないにしても、白滝までは敷設してほしい」と訴えました。

 これに対し遠軽では、早急に鉄道敷設の実現を達成するために、陳情団を組織し、国会に直訴することを決定します。しかし、そのために必要な上京資金が部落会費ではまかないきれず、50円が自己負担額となりました。この金額は、当時の小学校教員の初任給にあたり、一家庭からの捻出は決して楽ではありませんでした。にもかかわらず、自発的参加を申し出た有志が、遠軽・丸瀬布・白滝地区から52名も集まりました、さらにこの陳情団にある強力な助っ人が現れました。

水谷政次郎

水谷政次郎

 その人物とは、国内で有名なパンのブランド「マルキパン」の創業者で、「東洋のパン王」と言われた、大阪の水谷政次郎です。彼は石北線の開通を見込んで、大正10年、沿線の小清水と丸瀬布の2ヵ所に農場を開設し、パンの原料である小麦粉を栽培していたのです。大阪にパン製造工場を持つ水谷は北海道からの円滑な物資輸送は何より重要と考えていました。ところがその物資輸送が、石北線の工事延期により滞ることになると、この地域に農場を開設した意味がなくなってしまうため、水谷は、予定通り工事が行われるならばどんなことでもしようと、北海道農場の支配人であった市原多賀吉を陳情団の団長に据え、さらに1万円の資金を出して運動を応援したのです。この資金提供により、陳情団は結局自己負担金を出すことなく、運動に専念できるようになりました。

 大正13年11月10日、陳情団は地域住民たちの期待を背負って遠軽駅を出発しました。名寄線経由で札幌に出向き、鉄道局、道庁、他関係政党支部に石北線早期敷設を陳情した後、3日後に東京に到着。一方、彼らの出発後、警視庁から遠軽警察署に陳情団の上京を思いとどまらせてほしいという連絡が入りました。当時は関東大震災からまだ1年しか経っておらず、東京には家も職もない人々があふれているという不穏な社会情勢下にあったため、政府への不満要素をこれ以上増やしたくないという狙いがあったのです。しかし、この連絡が遠軽に届いたのはすでに遅く陳情団の東京到着前日である11月12日でした。

 到着した彼らは水谷政次郎からの運動資金があるとはいえ、経費はなるべく節約しなければならず、陳情団の出発に先立ち、団員の一人、北海道家庭学校の鈴木良吉が、東京芝の増上寺と泉岳寺に宿舎として使わせてほしいと交渉しました。しかし、警視庁の意向で断られてしまい、後日到着した団員たちは、やむなく新宿のホテルを拠点としながら活動することになりました。
 陳情団は長旅の疲れを癒す間もなく、陳情ののぼりを手に、カボチャ弁当を腰にぶら下げ、絶えず私服警官の監視を受けながら、鉄道省をはじめ国会や政党本部、その他関係機関に陳情を繰り返しました。このカボチャ弁当は、遠軽から俵に詰めて貨物列車で送られてきたもので、それを宿で煮て、弁当にしながら活動を行っていました。
「貧しい農民は鉄道がなければ安い米が食べられない。交通が不便なために輸送費がかさみ、農家の経済が圧迫されるため、毎日カボチャばかり食べてしのいでいる」と、彼らは地元の悲惨な現状を切々と政府に訴えました。

石北線鉄道速成陳情団旗

石北線鉄道速成陳情団旗

 国会の控室などでカボチャ弁当を広げて食べる百姓風の異様な風景は、東京中の新聞や雑誌に「カボチャ団体の陳情」として大きく取り上げられ、その記事はたちまち全国の注目と同情を集めることになり、地方から「カボチャ団体」の様子を見に来たり、励ましに来る者も多く現れました。
 11月15日、鉄道省で仙石鉄道大臣と会談の際には、警官11人が団員を取り巻いて警備にあたり、さらに大勢の新聞記者が同席するという物々しい中での陳情が行われました。
団長が「鉄道が開通すれば毎日カボチャばかり食べずに済む」と訴える席上で、突然白滝の新保国平が進み出て、
「団長の言われるとおりです」と言って泣き出すと、これに続いて団員たちも男泣きに泣いたのです。
 素朴だが悲痛なまでの彼らの熱意に大臣も動かされ、警備の警官までもがもらい泣きするという、まさに感極まる請願活動でした。
 このようなカボチャ団体の必死の叫びと世論の高まりによって、ついに政府から石北線の敷設工事の約束を得ることができました。彼らは10日間にわたる大きな使命を果たし、11月22日、東京で解団式を行い、それぞれの地元に帰村しました。

 陳情から翌年の大正14年9月、国は遠軽〜丸瀬布間の鉄道敷設を認可。2ヶ月後の11月から石北線最初の工事は無事に開始されました。陳情団団長の市原は、石北線が全線開通するまでの8年間、毎年関係大臣らにカボチャを1俵ずつ送り、カボチャ団体の鉄道敷設に対する信念を忘れさせないよう、努力を続けました。その間も工事は着々と進められ、昭和2年、遠軽〜丸瀬布間が開通。昭和4年には丸瀬布〜下白滝間、下白滝〜白滝、上川〜中越間が開通。そして昭和7年、ついに石北線全線が開通し、涙ながらの凄まじい陳情運動はここに実を結びました。


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