STVラジオ ほっかいどう百年物語 植芝 盛平


植芝盛平
カテゴリー: 人物 

STVラジオ ほっかいどう百年物語 12年9月9日放送

植芝 盛平(うえしば もりへい)(1883〜1969)

 

北見峠のふもとに位置する、道北・遠軽町白滝。かつて白滝村と呼ばれ、道内2番目に少ない人口1200人を擁する、酪農と畑作のこの村に、初めて開墾の鍬が振り下ろされたのは、明治45年のこと。移民団80名を率いて和歌山県からやってきたのは、29歳の青年、植芝盛平でした。彼は厳しい開墾生活の中で、強靭な肉体と精神力を養い、それを基にして新しい武道「合気道」を生み出したのです。現在、日本を代表する武道のひとつとも言われる「合気道」。その創始者、植芝盛平をご紹介します。

 

 

 明治2年、札幌に開拓使本府が置かれて以来、道内各地の開発は急速に進んでいきました。明治25年には網走刑務所の服役囚たちの手によって、現在の国道39号である旭川―網走間の中央道路が開通。そして屯田兵の入植によって、北見周辺の町づくりは一挙に進められました。

 そんな中、開墾の手が加えられずに、長い間、動植物の楽園となっていたのが、遠軽町白滝でした。ここに最初の団体移住が入り込んだのは、明治45年5月。桜の花が咲く和歌山県を出発し、2ヵ月間かけて現地にたどり着いた80名の移住者たちでしたが、春だというのに雪が多く残るその光景に驚き、言葉を失いました。

「冬でもこんなにたくさんの雪は見たことがねえ。俺たち、こんなところに住めるのか…。本当にここで生きていけるのか…」

 その時、一人の若者が人々の前に立ち、声高らかに言いました。

「今日からここが我々の第二のふるさとになるのです。皆で協力し合い、一日も早く住み良い村に変えていきましょう。私も命をかけて取り組みます!」

 それは、29歳の若きリーダー、植芝盛平でした。温厚な表情の奥に鋭い眼光を放つ盛平は、この時、己の力の限界に挑戦することを改めて誓ったのです。この日から、白滝村の近代史は始まりました。 

 

植芝盛平の誕生の地は、海と山に囲まれた、和歌山県田辺市。ここは江戸時代、紀州徳川家の家老として3万8千石を領有した安藤氏の城下町であり、落ち着いた佇まいの屋敷が建ち並ぶ、素朴な土地でした。

この町で、農業と漁業を営む裕福な家庭に生まれたのが、盛平でした。父の与六は体が大きく力持ちで、気性も激しい性格として知られていましたが、盛平に対しては一度も声を荒げたことはありませんでした。なぜなら植芝家は代々女子ばかりが生まれる家系で、当主となる男性は皆養子。与六の代にも女の子が続いて、諦めかけていた明治16年、ようやく待望の男児を授かったのです。

そんなわけで、父・与六の過保護なまでの愛情によって、少年時代の盛平は病弱で、引っ込み思案な少年に育ちました。外で遊ぶことも好まず、いつも一人で部屋にこもっては積み上げた本をむさぼり読む、そんな子どもでした。

しかし盛平が、弱さから強さへと変わったのは、ある事件がきっかけでした。村会議員を務めていた父が、暴漢どもの逆恨みに遭い、寝込みを襲われたのです。押し問答の末、父の鉄拳によって暴漢どもは倒され、事なきを得ました。が、いつもは温厚な父が、必死の形相で格闘している姿を目の当たりにし、幼心に激し

 

い衝撃を受けたのです。

「世の中には無抵抗の人に暴力を振るう人間もいるんだ。今まで力なんか必要ないと思っていたけど、いざという時、自分や大切な人を守る力を持つことはとても大事なことなんだ」

 男として父の助けになれなかった後悔の念と、強くなりたいという思いが、気弱な少年の心を動かしました。以来盛平は、自宅にこもるのをやめて、近所の子どもたちと水泳や相撲で体を鍛え、強靭な体力と負けん気の強い心を培っていったのです。

 

小学校卒業後は、地元の中学校に入学。ほとんどの子どもが小学校で終える中、裕福な子息の証である中学に進学した盛平は、地元の子どもたちの羨望の的となりましたが、わずか1年で自主退学し、そろばんを極めようと、珠算塾に通い始めます。もともと理数が得意なうえに、覚えが良く、手も速い。しかも性に合えば、わき目もふらずに熱中する性格のため、盛平はわずか1年足らずで塾の教師を務めるほどとなったのです。

 その後、17歳で塾を終了すると、乞われて税務署に勤務します。同じ頃、地元では漁民による漁業法への抵抗運動が勃発していました。漁業法が制定されれば、漁獲が厳しく規制されるうえ、課税率も高くなり、漁師たちの生活破綻を招きかねないと訴えたのです。

盛平は、村人たちの窮地を救いたいという義侠心から、税務署員の立場を捨てて運動に参加。和歌山県庁に直談判に訪れるなど、寝食を忘れ、先頭に立って奮闘しました。しかし、所詮権力には太刀打ちできないことを、この時彼は痛感するのです。また、相手と押し問答するたび、必ず言われるのが「若造のくせに」「たかが税務署の下っ端のくせに」「チビが生意気を言うな」などの暴言でした。これらの厳しい非難が、彼の闘志を燃え上がらせたのです。

「俺は、もっと強い男になりたい!強さとは体の大きさには関係ないはずだ。『本当の強さ』を身に付けた男になりたい!」

盛平は、自分の可能性を試すため、上京を決意。明治35年、18歳にして初めて故郷を飛び出しました。

 

東京では丁稚奉公に始まり、文房具、学用品の仕入れ・販売などをやってみましたが、なかなか楽しさを見出せませんでした。やがては「植芝商会」という小さな店を出し、店員も4,5人雇えるほどの成功を収めますが、それでも一向に自分の商売に執着を感じることはできませんでした。

「そろばんは弾けても、俺は商人は向いていない。いったい何が性に合っているのだろう」

 そんな時、鬱屈を晴らそうと始めてみたのが、柔の古武道、柔道でした。夕方、仕事を終えてから柔道場へ通ううち、彼は武道が思いのほか自分の体に合うことを知るのです。

 そして翌年、徴兵検査を受けるために、帰郷することを決意します。

「俺はもう東京へは戻ってこない。店と品物、それに家も家財道具もお前たちにやる。みんなで商売を続けるなり売り払って金にするなり、好きにしてくれ」

「店主、そ、それでは手ぶらで故郷に帰ることになりますが…」

「なあに、着物一枚で上京したんだ。帰る時も着物一枚だ。わっはっは」

 目を丸くする店員たちを尻目に、盛平は豪快に笑いながら東京を後にしました。

 

和歌山に帰郷後も、柔道は続けました。そのうち、軍人になってお国のために尽くすことこそ、真の男の

 

生き方であり、強さであると信じるようになっていきます。そして明治36年、20歳にして、憧れの軍人として満州に出征。盛平の銃剣術は連隊一とも言われ、入隊後すぐに軍曹に昇進しました。

日露戦争は日本の勝利で幕を閉じますが、この戦争により、敵味方関係なく多くの人々が命を落としました。この事実が、血気盛んな盛平の心に暗い影を落とすのです。

「軍人とはいったい何なのだろう。人の命を殺めるための訓練に何の意味があるのか。国に尽くすことは、人の命を奪うことでも、名誉の戦死をすることでもない。こんなことは人間の真の強さではない」

明治40年、盛平は自ら軍隊を去り、足掛け4年の軍人生活に終止符を打ちました。

 

 自分はこれからどう生きていけばよいのか。24歳の盛平は悶々と悩みました。相変わらず故郷で柔道に打ち込みながらも、自分が進むべき道を見つけられないまま日々はむなしく過ぎていきました。そんな生活が数年続いたある日、盛平に転機が訪れます。政府が北海道に入植する団体を募集しているというニュースが飛び込んできたのです。

 この頃すでに北海道の人口は170万人を数え、発展の一途をたどっていました。さらに北海道開発を急務とする政府は、入植の条件を旧士族から平民にまで広げ、また、格安の長期貸付金によって1戸あたり10ヘクタールを耕せば、その土地が全て自分のものになるという好条件を付けました。これに盛平の心は躍りました。もともと和歌山は土地が狭く、日露戦争後、復員した人々は、日々の生活もやっとという有様だったのです。

 明治44年、盛平は現地に渡って、まだ開発の手が加えられていない白滝村を入植地に決め、早速移住を呼びかけました。

「北海道に行ってきました!耕しても耕しても、耕しきれないくらいの広さです。僕たちの新しい村をつくりに行きませんか!」

自分の土地が持てる。この夢のような話に、家督を継げない次男・三男や小作農家の人々は喜んで飛びつきました。たちまち54戸もの応募が集まり、盛平は団体長として大勢の家族の命と未来を担うこととなりました。長年、盛平を見守ってきた父・与六は、ようやく自らの人生を見出だした息子に、植芝家の資産が傾くほどの現金を渡して、それをはなむけとしました。

「新しい土地で一から全てを築き上げていく。極限状態でこそ、俺の追い求めていた、人間の真の強さが見つかるはずだ。どんな困難にも俺は立ち向かってみせる!」

強さに憧れを抱いて生きてきた若者は、大きな希望を胸に北海道へ旅立ったのです。

 

明治45年3月、桜咲く故郷・和歌山を後にした一行は、2ヶ月かけ、ようやく希望の地、白滝村にたどり着きました。しかしそこは、辺り一帯残雪に覆われ、川には薄氷が張り、楽園と言うには程遠いものでした。入植者たちは、その荒涼とした大地に絶望感をあらわにし、涙を流しました。

「あと半月もすれば雪は溶けるはず。その時までに力を合わせて、種を蒔けるような畑を皆でつくりあげましょう」

盛平はそういうと、直径1メートルもの巨木に向かって、力強く鍬を振り下ろしていきました。そうだ、泣き言を言っている暇はない。人々は若きリーダーの姿に励まされ、次々と後に続きました。しかし、大自

 

然への挑戦は甘いものではありませんでした。1年目は馬鈴薯の栽培を知らず、寒さに弱い穀類を作って失敗。2年目は、夏は低温、9月には初霜という異常気象のため、またもや収穫は皆無。3年目は、北海道全体が大凶作に襲われたのです。盛平の父が用立てた支度金もついには底を尽き、人々は飢えと寒さの極限状態に身を置きながら、楢の実などを食べて命をつなぎました。

「やっぱり南国育ちの俺たちがこんな寒い土地で生きていくなんて、所詮無理だったんだ。ここに自分達の村を作るなんてできっこない!」

 いつの間にか、仲間の心はバラバラになり、盛平に対する信頼も揺らいでいきました。

「俺を信じて着いて来てくれた人々を不幸にはできない。命をかけて守ると皆に誓ったんだ!」

盛平は道庁や紋別郡役所に働きかけて救済補償をとりつけ、物資補給に奔走し、その多忙の合間をぬっては率先して畑仕事に汗を流しました。彼が1年間で倒した木々は、じつに5百本以上に及んだといいます。

 

そうして迎えた4年目、ようやく収穫が徐々にあがり始めると、盛平はその勢いに乗って、収入の良いハッカの栽培、商店街づくり、小学校の建設、保健衛生管理の組織づくり、さらには神社も建立するなど、住み良いまちづくりを目指しました。その命がけとも言える取り組みは、仲間の心を再びひとつにさせ、皆が盛平のもと、一丸となってまちづくりに励みました。

その中でも特に、地元の白樺、クルミなどの材木を用いての造材事業は一躍ブームを呼んで、白滝村は一挙に人口が急増。全国各地から一獲千金を夢見る移住者たちが押し寄せ、入植時、54戸だった人口は、7年後の大正7年には10倍にも達したのです。

この飛躍的な発展には、北海道庁をはじめ行政も大いに驚き、白滝村の植芝盛平の名は広く知れ渡りました。

「植芝さん、あんたはいつでも俺たちのことを考えてがんばってくれたのに、泣き言ばかり言ってすまなかった。今はここが我々の第二の故郷だと胸を張って言えるよ」

「いいえ、私からも、皆さんに感謝しなければなりません。今まで転々と職業を変えながらも将来を見出せず、甘ったれだった私に、人の強さとは何たるかを教えてくれたのは皆さんです」

その時、生みの苦しみに勝る大きな喜び・達成感が、盛平の心の隅々に広がっていきました。人間の強さ、それは力ではなく苦境に立ち向かう不屈の魂、決して諦めない反骨精神、そして全ての人に対する限りない愛情。彼は厳しい北の大地で、ついに新境地にたどり着くことができたのです。

 

大正4年、32歳の盛平に、心の眼を開くさらなる出逢いが訪れました。仕事で立ち寄った、隣町・遠軽の民宿に、偶然にも大東流・合気柔術の宗家・武田惣角が宿泊していたのです。大東流とは会津藩の門外不出の柔術で、明治に入り、会津の武田惣角がはじめてその技を一般に伝え、世に広まりました。

それまで盛平は、武道に関しては力も技も誰にも負けないという自負がありましたが、武田にはまったく歯がたたず、組み合った瞬間体が宙に浮き、床に叩きつけられてしまったのです。

「武道は力ではない」。盛平は霊感にも似た閃きを感じ、以来武田のことを師とあがめました。武田もまた、盛平の小柄ながらハガネのようなたくましい体つき、切れのある技に天賦の才を見出し、自分の持てる技を、盛平に仕込みました。

 

大正7年、盛平は村人たちの推挙を受けて、白滝初の村会議員に就任。多忙な日々を送りながらも、武道の修行に明け暮れ、いつしか新たな人生の目標も生まれていました。

「俺は人間の真の強さというものを開墾生活で教えてもらい、武田先生によって武道の眼を開かせてもらった。武術は技や力だけではない。気を成熟させることによってはじめて完成されるのだ。気を成熟させるには相当の努力が必要だが、俺には開墾で培った不屈の精神力がある。これからは武道家として、自分の信じる道を生きていこう」

 翌年、盛平は故郷の父の死をきっかけに、8年間の開墾生活に別れを告げ、白滝村を後にしました。

「俺がいなくてもこの村はもう大丈夫だ。今一番大切なのは、新たなる自分自身への挑戦なんだ」

 白滝村の人々は、力を合わせて村のさらなる発展に力を尽くし、遠い地から盛平の夢を応援しました。時折届く白滝村からの便りを励みとし、大正9年、盛平は京都で「植芝塾」道場を開設。そこで、武田惣角から学んだ大東流とその他の古武術を融合させた独自の武術をつくりあげていったのです。

「何事にも動じない冷静さと集中力を、瞬時に技の中に押し込めるんだ」

彼の修行は、早朝から深夜にまで及びました。山中で槍や杖、真剣や木刀を振りかざし、7〜8個の玉を瞬時に突き分ける特訓など、まさに血のにじむ努力を重ね、そして心の真髄「和」の境地にたどり着きました。ついに「気・心・体」の動きの世界を悟ったのです。気は心の動きを表現する力、心は自我そのもの、体は肉体。それらを手のひらの中に押し込め、一気に放つ。この独自の武術を彼は気を合わせる武道、「合気武道」と名付けました。大正11年、39歳の時でした。

 猛者を次々と「気」でなぎ倒す男がいるという噂を聞きつけた軍人や武道家たちは、連日盛平のもとへ教えを請いにやって来ました。さらに昭和に入り、戦争の時代に突入すると、合気武道は日本男児の精神鍛錬の武道として尊ばれ、日本中に広まっていきました。昭和17年、69歳の時には、正式に「合気道」と命名。合気道創設者となった植芝盛平のもとには、数え切れないほどの弟子たちが集いました。

「人生何事も修行である」。昭和44年、亡くなる直前まで生涯現役であり続けた植芝盛平。その気力あふれる動き、武道に倫理性を求めた姿勢は、国内はもとより海外の人々をも魅了し続けました。

 

 現在、国内120万人、世界56カ国では160万人もの愛好家がいるといわれる合気道。

「合気道とは敵と戦い、敵をやぶる術ではない。切磋琢磨をはかり、自己の人格完成を目指す武道である。」

それは開祖・植芝盛平が、北海道での厳しい開墾生活の中から見出した結論でした。白滝村は植芝盛平の偉業を讃え、彼が入植した年、明治45年を白滝村開村の年と定めました。

そして現在、遠軽町と合併し、遠軽町白滝となったこの地には、「植芝盛平翁ゆかりの地碑」が建立され、全国の合気道関係者たちが訪れています。また、植芝盛平のフロンティアスピリットに尊敬と憧れを抱く白滝の住民たちも、地元の道場で日々合気道を学んでいます。

 

 

参考文献

 「北へ・・・異色人物伝」北海道新聞社編・発行

 「合気道開祖 植芝盛平伝」植芝吉祥丸著 出版芸術者発行 


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