1898年09月06日 の出来事
年代: 1898年09月06日
大水害が発生
明治31年の大水害
この年は春季以降天候がよく農作物の生育も順調に経過していました。しかし、8月上旬から降り続いた雨は9月に入ってもやまず、9月6日からはさらに大雨となり、どこの川も増水し濁流は一斉にあふれ出し、ついには未曾有の全道的大水害となりました。湧別川の増水は実に4.6mに及んだといわれており、9月7日の午後になってさらに増水した濁流が急激に学田地に押し寄せてきました。その濁流は秋の大豊作が確実と予想されていた学田農場の過半1500町歩余りを泥の海にしてしまいました。
また、農作物だけでなく濁流の被害は掘建小屋20数戸にもおよびました。建物をたちまち押し流し、逃げ遅れた農民は屋根を破って逃れたり、大木によじ登って助けを求めましたが、濁流の中では救助するすべがなく自然に減水するのを待つより方法がありませんでした。
この大水害の状況が全国的に伝わると資本主たちは北海道開拓事業に希望を失い、払い込みを停止したり解約を申し入れるものが続出。学田地の開拓事業に決定的な打撃を与えました。政府や道庁の救済事業もなかなか進まず、学田地の小作人たちに与えたこの惨状を一日も早く救うため意を決した信太農場監督は、高利貸の金を借り食料などを購入し小作人に支給しました。
しかし、なお食糧や生活物資の欠乏し被災者の救済をはじめとする営農上の資金の不足は明らかで、被災した小作人の辛苦と動揺は極度に達し居住者たちの心は追い込まれていきました。
その結果、ついには湧別やその他の地に暗夜逃走する者が続出し、また同年に移住の予定であった小作人も渡道を中止するなど、学田農場の前途は暗澹たるものとなり、学田事業復活の道は一時閉ざさざるを得ない状態に追い込まれてしまいました。