今も残る長く真っ直ぐな道路-湧別基線道路と区画制度-
札幌市の道路は碁盤の目のように四角くできているという、話は一度はどこかで聞いたことがあるという人が多いのではないでしょうか?
しかし、実は道内のいたるところでそれと同様の様子を見ることができます。
遠軽町もそのうちの1つです。今ではインターネットなどで航空写真を簡単に見ることができるので、地図を見て今も残るその様子に驚くことでしょう。
湧別から真っ直ぐ遠軽に向かう国道242号。その線を等間隔の300間(540m)の間隔で横に区切る道路。これが、私たちが普段何気なく住所や道を説明する際に使う○○号線と呼ばれるもので、湧別から数えて1号線から順に遠軽の野上駅逓までの26Kmを分ける線が43号線まであります。これが明治25年に開削された、湧別基線道路という道路です。
また、この湧別基線道路を中心に東西に同じく300間の間隔で道路が開削され、東1線・西1線というふうに分けられ、基線道路・○号線・東○線とそれぞれの道により300間の間隔に分けられた四角いマス目状の区画が、さらに縦100間と横150間の6つの長方形にわけられ、その小区画一個分が農家一軒分の敷地として入植者たちへ割り当てられました。
未開の土地をより早く開墾させようという計画的な北海道の開拓はアメリカ西部の開拓時代に取り入れられていたタウンシップ制という土地区画制度を参考に行われました。
この湧別基線道路は外国からの守りをかためる上での軍用路としての性格を持っており開削が急がれていました。そのため、中央道路(別名囚人道路)と同様、網走監収監者が開削に従事しました。工事期間は約半年間、その間に17名もの死者が出たとされており、過酷で厳しい労働であったことを物語っています。
現在のような機械や測量技術の無い明治の時代、生い茂る大木と、密林地帯、川すらも横切り、この地域を真っ直ぐに切り拓いた苦労は計り知れないものであったことでしょう。