ミステリアスな話「6000万円の埋蔵砂金」


鉱石と掘削道具
年代:大正6年
カテゴリー: 言い伝え 

丸瀬布地区には今も「砂金沢」の名称が残っているように、その昔、この地区は面白いほど砂金が採取できた土地で、これは今から77年ほど前、本当にあった話です。

1917年(大正6年)の夏、60歳前後の老鉱山師が、砂金を求め渚滑方面から丸瀬布川上流にやって来ました。

「こりゃすげえ。どんどん採れるぞ!」

老鉱山師は大量の砂金に大興奮。持参した4号瓶3本に砂金を詰めたほか、入らない分は身に付けていた胴巻きにもいっぱい入れて、山をくだることになりました。

ところが…。

「ん?いててて…。なんだ?急に腹具合が…」

胴巻きに詰めた砂金で体を冷やしたためか、腹が痛み出してしまったのです。木陰に座り込んでしばらく休憩したものの、治る気配はまったくなく。こんな腹痛の身で、50㎏に近い砂金入りの瓶を持ち歩くのは、到底困難に思われました。

「まいったな、置いていくこともできんし…、そうだ!」

老鉱山師は、休憩場所の近くにあったナラの大木を目印に、その根元に砂金の入った瓶を埋めて隠して、いったん丸瀬布まで引き上げることしました。

丸瀬布では斉藤旅館に宿泊し、3日ほど養生をしましたが、腹痛は一向に治まりませんでした。

「頼む、医者を呼んでくれ」

「あいにくこの町には医者がおらん。お客さん、だいぶ具合が悪そうだ。大きな町で病院に診てもらった方がいい」

老鉱山師はやむなく胴巻きに入れていた砂金で宿銭を払い、埋めた砂金入りの瓶を気にかけながらも、丸瀬布を離れて札幌へと向いました。

一度完治させてから取りに行けばいいだろう。そう思って札幌の病院に入院したが、病は快方どころか悪化する一方でした。手持ちの砂金を現金に替えたため、入院費には困らなかったが、もはや退院する見込みはなさそうだった。

「俺はもう駄目だ…。これまでの人生に悔いはないが、心残りはあの砂金。どうせなら最期にひとつくらいいいことをして死んでいきたい」

死期を悟った老人は、ある日、担当の看護師を枕元に呼んでこう伝えました。

「砂金沢に俺の砂金がある。埋めた場所の地図を書いたから、取りに行ってくれ。一生楽に暮らせるだけの量だ。全部あんたにあげるから」

「砂金?どうして身内でもない私に?」

「あんたが一生懸命俺の看病をしてくれているからだ。最期にあんたのような親切な人に会えてよかった」

看護師に地図を託して、その後まもなく老人は亡くなってしまいました。

看護師は、さして関心もなかったのか、日々の忙しさの中でその話をしばらく忘れてしまっていましたが、結婚期を迎えた1923年(大正12年)頃、ふと砂金のことを思い出しました。

「そういえばあの砂金話!おじいさんの話が本当なら、結婚資金にできる」

勤めていた病院を退職し、丸瀬布を訪れた彼女は、かつて老山師が泊まったという斉藤旅館を拠点に、埋蔵砂金を探し始め「老人の大事な落し物の探索」という名目で人夫を数人雇い入れ、1週間ほど探索しましたが、ついに目印のナラの大木を探し当てることはできませんでした。
この探索で病院の退職金を使い果たした女性は、ガックリと肩を落としました。去り際に女性は宿の女主人である斉藤かねへ、初めて真相を明らかにしました。

その後も、女性は斉藤家と文通による交流を交わしながら看護師に復職。戦中戦後にかけては紋別に居住していましたが、1950年(昭和25年)頃から、斉藤家との交流は途絶えてしまいました。

ところで、4合瓶3本分の42kgの砂金というと、現在の金1g1600円前後に換算すると、6700万円を超えるが、老鉱山師の話に嘘がなければ、丸瀬布川上流には、その砂金がいまだ埋もれたままということになっています。

この話の真偽を探るべく、丸瀬布地域の人に聞いてみたところ、「確かに昔砂金の獲れた砂金沢はある」「そのような話を聞いたことがある」という声がある一方、宿泊したとされる斉藤旅館の存在については「昔、旅館はあったが『斉藤』という名前ではなかったのでは」という証言もあります。

もし、本当の話だとすると、砂金はナラの大木の下に密かに眠っているのか、または誰か他の人が見つけて持ち帰ったかとちらかでしょう。しかし、いずれにしても、老鉱山師の全くのデマとも言い難く、何とも気になる話です。

引用文献

新丸瀬布町史下巻 平成6年5月1日発行


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