1906年5月の出来事


年代:1906年5月

湧別川の大水害で開盛橋流失
開盛橋は湧別原野開発のための重要な殖民道路(湧別基線道路)の一部であり道路の維持関係は仮定県道が行っていました。
しかし、明治37年、名寄〜興部〜紋別間に開通した殖民道路(仮定県道)が、新しく郵便線の指定になったため、それまで仮定県道扱いであった基線道路が郵便路線廃止とともに里道(市町村通)へ格下げされることになり、基線道路の維持管理は国から湧別村に移りました。
このため、明治39年5月に発生した湧別川の大水害で流失した開盛橋の復旧は国費支弁にならず、開盛橋の再建には湧別村があたることとなりました。しかし、当時の財政事情では橋を建設することができず、渡船場を設置し船での往来が余儀なくされました。
大正15年、基線道路が再び仮定県道に昇格した際、28号線に国費による開盛橋の建設が進められることとなり、25号線よりこの橋に通じる湧別川右岸山手新道20町(2.2km)の開削工事が共に同年11月竣工し、渡船通行はようやく解消され晴れて基線道路としての機能が発揮されることとなりました。


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