1919年02月01日 の出来事


年代: 1919年02月01日

石北本線敷設運動として、遠軽劇場にて「旭遠鉄道速成地方大会」を開催

石北本線 敷設運動

 この運動は明治43年11月、愛別村長太田竜太郎が本道内部への鉄道網整備を強く叫んだことにより始まります。その路線は旭川〜遠軽間と北見地方から十勝を回り旭川への連絡路線を速やかに敷設することだと力説し、関係町村との連携運動を決意し、雪中の北見峠をわらじ履きで越え、白滝・遠軽を経て上湧別にいたり、湧別・佐呂間湖畔を踏破し、留辺蘂・野付牛を経て陸別に着き、陸別から鉄道により十勝を迂回して愛別に帰村しました。
 太田は旧友である逓信大臣兼鉄道院総裁後藤新平に「北見踏査所感」などを送り、上京して直接本道の鉄道建設の建言を行った。これにより翌44年に鉄道院の筒井孫一外技師18名が愛別に派遣されて石北線敷設にかかわる実地踏査をしました。このとき兼重浦次郎上湧別村長も愛別に行って調査団を出迎えました。

 また、同年6月には上川地方の有志数人が鉄道敷設のため上湧別に来村しました。
 当時の鉄道は滝川〜富良野間が開通するまで、函館〜釧路間は旭川〜富良野を経由していましたが、大正2年11月滝川〜富良野間が開通してからは、滝川〜芦別回りとなり、結果的に旭川は支線となりました。このため乗降客も少なくなり、駅売り名物の旭豆の売り上げなども極端に少なくなるなど、旭川の経済にも大打撃を受けるようになっていました。
 そこで、旭川の有志は開発期成同盟を組織し、その第一として北見に通じる鉄道敷設の急務を叫び、小樽・札幌・当麻・愛別方面の関係者と、北見地区へは野付牛・遠軽・上湧別・湧別方面の有志に呼びかけ、結果的に300名余りにのぼる有志を集め、石北線の鉄道敷設にかかわる期成同盟としての大会を開いたのです。
 遠軽では大正8年2月1日、遠軽劇場にて「旭遠鉄道速成地方大会」を開催、会長に三沢恒助、副会長に市原多賀吉、会計に菊池明十郎・後藤憲徳を選び、上京のための運動員に三沢を選出しました。
 三沢は主旨賛同者111名連署の請願書を持参上京し、第42議会と鉄道院に提出陳情しました。このとき、先の軽便鉄道湧別線敷設時には、佐呂間湖畔経由の「海岸線」側に賛成していた中湧別開発期成会の松尾金蔵も、中湧別地域で182名の請願書を集めて上京し提出、遠軽・中湧別の代表共同による請願活動を強力に展開したのです。
 大正9年3月、石北線の鉄道敷設の陳情や請願活動に、北見地区はもとより、上川や石狩地方からも帝国議会と鉄道院に強力な請願活動を展開し、それら共同行動の結果、石北線旭川〜遠軽間が起工されることに決定したのです。
 大正11年、この路線敷設のための実測が着手され、この路線は当初旭川から石狩岳の付近を通り、武華原野を経て北見の留辺蘂に至る線「旭武鉄道」、または「旭留線」といわれた線と、現在の上川〜白滝を経て遠軽に達する「旭遠鉄道」または豊里(上遠軽)に駅を置く「旭野線」が考えられていました。


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