1893年07月30日 の出来事


年代: 1893年07月30日

角谷政衛が六号野上駅逓、二代目取扱人に任命された。

(管理人としての就任は明治25年) 

六号野上駅逓  (遠軽町百年史より)

明治25年11月開設、六号駅逓と呼ばれた「野上駅逓」の設置は、網走の越歳駅逓から数えて六番目の駅逓なので六号駅逓と呼ばれ、明治25年の官報で告示された。これは中央道路開削の翌年で、駅舎は中央道路と湧別基線道路との分岐点から250mほど西側に離れた場所に位置していた。(当時西一線が基線と思い違いした結果であろうといわれている)駅逓取扱人には紋別に在住中の笛田茂作が就任し、管理人として角谷政衛が任命された。野上駅逓の用地は600坪(1980㎡)、駅舎は木造平屋であり野坂良吉の請負で建設したもので、畳建具つきで560円の建築費であった。宿泊の設備や官馬7頭が配置されており、旅人たちの求めに応じて次の駅まで乗せた。
乗駄馬賃は一頭一里(4km)につき9銭(明治36年ごろから12銭になる)で交通の便を図ったが、これが夜中であったりまた特別道の悪いときや冬道などは五割以内の割り増し料金を取った。貨物の運送は主に駄馬送によったが、後には荷馬車を使ったり冬季の積雪期には馬そりも利用した。貨物の多少と距離の遠近によって料金に相違があったが、大体一駄10銭程度の料金を取っていた。
 六号野上駅逓の宿泊料は一泊25銭と35銭に分かれていた。外国人は一円と決められていた。明治42年7月発行の「殖民広報49号」によると、野上駅逓の宿泊料は二食付きで一泊75銭と55銭の二種に分かれていた。六号駅逓の管理人角谷は、新潟県魚沼郡神立村で生糸商人角谷九郎の次男として嘉永5年5月に生まれた。中年になって生家の経営が不振に陥ったので、北海道で養蚕などで一旗挙げる夢を抱き来道するが失敗に終わった。角谷は明治24年、紋別で酒屋を営んでいた従弟の笛田茂作宅に身を寄せたが、笛田の骨折りにより、多数の競願者の中から角谷が六号野上駅逓の管理人として開業した。26年7月、笛田死亡後、角谷は二代目取扱人に任命された。これが遠軽町に初めて和人の居住であり、遠軽地方の原野開発の糸口を開いた人といわれている。
 明治30年以降の中央道路の交通事情は入植者や旅人の増加と共に、交通量が徐々に増し、駅逓の利用も活気に溢れた時代であった。しかし、湧別〜紋別〜名寄間の新道が開削した明治37年以降は、北見地方から道央への往来は紋別〜名寄間経由の新道に完全に移った。大正元年、軽便鉄道湧別線が北見〜留辺蘂間が開通し湧別までの全線開通が近々となった。それにあわせて、一般の交通も下生田原(現安国)から湧別基線道路を通り、湧別〜紋別を経て名寄方面への往来が多くなった。この時期より、中央道路を通り上川〜旭川方面に往来する旅行者はすっかり影を薄めた。したがって、それまで繁盛していた六号駅逓の存在はその意味がなくなった。

 大正2年7月、六号駅逓は下生田原(現安国)に移し4年4月に下生田原駅逓と改称し、旅人の便を図った。しかし大正12年9月、下生田原駅逓も惜しまれつつ駅逓の役目を解かれ廃止となった。


↑先頭へ