1891年10月21日 の出来事


年代: 1891年10月21日

のちに北海道家庭学校を創設する留岡幸助は、明治24年に空知集治監(刑務所)の教誨師として赴任しましたが、この年、札幌~白老~浦河~釧路~網走と道内各地を旅しました。網走から上川に向かう途中には、ちょうど開削工事の最中であった中央道路の囚人労働の現場を視察し、多くの犠牲者を出したこの工事の惨状を目撃しています。

最も犠牲者を多く出したのが、野上に設置されていた九号仮監(工事に出役している囚人たちの仮宿泊所、九の小屋と呼ばれていた。)でしたが、この日留岡が訪れ、囚人たちが病に苦しむ様子を次のように日記に記しています。


 

明治24年10月21日(水)

・・・湧別より九の小屋までおおよそ六里の間は野地山道にて、その路程の険悪なる現場に臨むごとに驚くばかりなり。九の小屋に達する頃は黄昏なり。寒気身に染み込むばかりなり。寒暖計およそ三五、六度(華氏、摂氏の約二度)の間と思わる。九の小屋は網走分監より北海道中央道路普請のために出役せる小屋の一つなり。この小屋水腫病の為に罹病せる囚人およそ七二名。同じ病気のために悩めり。苦悶の声、もっとも憐れなり。おもわず一片の熱禱を囚徒のために天父に捧げたり。この夜隙間より洩れ吹く風のためにさらされて一夜を辛く明かす・・・


 

なお、この九号仮監跡地からは後年多数の遺骨が発見され、昭和51年に「国道開削殉難者慰霊碑」が建てられています。

国道開削殉難慰霊之碑

国道開削殉難慰霊之碑

明治30年頃 旧瀬戸瀬仮監の建物 佐藤太多七が住宅に当てていもの

明治30年頃
旧瀬戸瀬仮監(九の小屋)


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