1983年10月の出来事


年代:1983年10月

山の神建立の由来の石碑が建てられた

山の神建立の由来 (碑文)
明治24年に開削された国道333号中央道路旭川〜網走間は別名囚人道路とも呼ばれた。北方警備を急ぐ明治政府は大量の囚人を工事に納入し北見峠から網走までの約163キロを一年で仕上げる超突貫工事であった。劣悪な条件下で犠牲者も多く明治27年駅逓の責任者としてこの地に入った佐藤多七が旧囚人宿舎を住居にあてた際に裏に67本の墓標が立ち並んでいた。また夜毎「助けてくれ」との声やうめき声が聞こえたので、慰霊に努めたが同31年の大洪水で墓標が流出した。雪の深い2月のある日佐藤多七は野うさぎを追って薬師山に入りふと目に入った雪に隠れた見事な岩をみつけ息子鶴松と近所の農民と力をあわせ巨岩を運び出し石碑を建てた。そして死後も囚人と呼ばれたのは気の毒と考え山の神と刻入した。婦人たちは雨や風にあたらぬよう石碑に屋根をかけた。明治38年のことである。開拓農民が生命を収奪された囚人への心からの手向けであった。現在は三代目が供養を続けている。  昭和58年10月 佐藤幸平


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